第八十三話 開門
夕陽が湖面を赤く染めていた。
カイは静かに制御盤の前へ立つ。
その手には、旧リューデン観測所で回収した制御鍵。
長い年月を経てもなお、青い金属は不思議な輝きを失っていない。
「試します」
誰も異論はなかった。
カイは鍵を差し込む。
カチリ。
小さな音。
次の瞬間だった。
制御盤全体へ青白い光が走る。
眠っていた回路が次々と目覚めていく。
ゴォォォ……
低い振動が足元から伝わってきた。
「起動した!」
マックスが声を上げる。
イリスも頷いた。
「認証成功」
「管理権限の一部を取得しました」
制御盤中央へ文字列が浮かび上がる。
⸻
緊急冷却設備
起動準備完了
⸻
「やったじゃねぇか!」
マックスが拳を握る。
しかし。
ユリオンは眉をひそめていた。
「いや……待て」
嫌な予感がした。
その時。
制御盤の表示が切り替わる。
⸻
放流水門開放率
三・二%
⸻
沈黙。
「……は?」
マックスが固まった。
イリスが制御盤へ手を触れる。
淡い光が流れる。
「原因を解析します」
数秒後。
イリスが顔を上げた。
「……水門が固着しています」
「固着?」
カイが聞き返す。
「錆びですね」
「長期間の未使用により、正常に開かなくなっているようです」
ユリオンが苦笑する。
「千年も放置されればそうなるか」
イリスは続けた。
「記録によれば、この場合は手動開放装置を使用せよ、とあります」
マックスが嫌な顔をする。
「今、嫌な予感しかしなかったぞ」
一行は案内表示に従い、水門上部へ向かった。
そこにあったのは巨大な螺旋軸だった。
直径だけで大人の背丈ほどある。
錆び付き、苔に覆われているが、その用途は明らかだった。
「手動開放装置か」
ユリオンが見上げる。
「古代人も最後は物理だったんだな……」
マックスがげんなりした顔になる。
「で?」
「これを回すのか?」
「ああ」
ユリオンは平然と答えた。
「回せ」
「簡単に言うなよ!」
カイは螺旋軸を調べる。
そして周囲を見回した。
「その前に、できることはやってみましょう」
「何かあるのか?」
「まずは潤滑です」
幸い、設備倉庫には古代の保守用品が残されていた。
完全には劣化していない潤滑油を見つけ出し、螺旋軸へ流し込む。
しばらく待つ。
そして全員で押した。
「せーの!」
ギギ……
僅かに軋む。
それだけだった。
「駄目ですね」
カイが息を吐く。
「では次です」
エルナが前へ出る。
「やってみる」
掌へ赤い光が灯る。
炎ではない。
鉄を温めるために制御された熱だった。
ゆっくりと螺旋軸を加熱する。
しばらくして。
「もう一度」
全員で力を込める。
ギギ……
先ほどより少し動いた。
だが。
そこで止まった。
「これ以上は難しい」
エルナが首を横に振る。
ヴァレリアも腕を組んだ。
「固着が酷いな」
カイも頷く。
「やれることはやりました」
沈黙。
その中で。
ユリオンだけが平然としていた。
「仕方あるまい」
一同が振り返る。
「皆、全力を振り絞れ」
マックスが目を剥く。
「まじかよ!」
「今までも全力だったぞ!」
「いや」
ユリオンは首を振った。
「まだやれるはずだ」
「根拠は!?」
「ない」
即答だった。
マックスが頭を抱える。
「駄目だこの学者!」
だがユリオンは気にしない。
「最後は気合いでなんとかしろ」
「雑すぎるだろ!」
「それと――」
ユリオンが振り返る。
「イリス」
「君も手伝ってやれ」
「はい」
あまりにも自然な返事だった。
マックスは思わず固まる。
「いや、ちょっと待て」
「なんでそんな流れになるんだよ」
ユリオンは怪訝そうな顔をした。
「何か問題でもあるか?」
「大ありだよ!」
マックスはイリスを指差した。
「イリスちゃんの細腕でどうにかなるレベルじゃないんだよ、これ!」
巨大な螺旋軸を叩く。
ゴン、と鈍い音が響いた。
「俺たち全員で押しても動かなかったんだぞ!?」
イリスは首を傾げる。
「大丈夫です」
「私、こう見えても力持ちですから」
沈黙。
「いやいやいや」
マックスが両手を振る。
「そういう問題じゃ――」
「では」
イリスが螺旋軸へ手を添える。
全員も再び持ち場へ付く。
「せーの!」
次の瞬間。
ギギギギギギギギギギギッ!!
巨大な螺旋軸が動いた。
「動いたぁ!?」
マックスが絶叫する。
さらに。
ギギギギギギギ……
石壁全体が震える。
巨大水門がゆっくりと持ち上がっていく。
「まだです」
イリスは淡々としていた。
まるで大した力を使っていないかのように。
全員が必死に押し続ける。
やがて。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
巨大水門が完全に開いた。
一瞬の静寂。
そして。
轟ォォォォォォォォォォォォッ!!
湖そのものが流れ出したかのような濁流が放流路へ雪崩れ込む。
膨大な水量。
凄まじい轟音。
水は巨大な水路を満たしながら、一気に山の下へ向かって流れていく。
誰もが言葉を失った。
その光景は圧巻だった。
古代文明の力。
その一端を見せつけられた気がした。
そして。
マックスだけが震える指でイリスを指差す。
「イリスちゃんって何者なんだよぉぉぉぉぉ!?」
その叫びだけが。
山々へいつまでも木霊していた。




