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孤高の人

実際、孟徳は楽進の一人芝居だと想い込んでいたので、その驚きは人一倍大きかったのだと謂える。そして三人は、その目論見を承知の上で、観劇宜しくのんびりと眺めていた劉禅君の胆力に圧倒されたのだ。


『『『参った…』』』


三人は三様にそう想い、相手が悪かったのだと苦笑う。全てを承知していながら、その話に乗ってやり、案内まで付けてくれるというのだから、まさに至れり尽くせりというものだろう。


あれだけの大芝居を打っておきながら、楽進などは、『いったいどういう神経してんだろうね?』等と(うそぶ)く。まるで内緒事を見つかって戸惑う子供の頃に戻った気すらしていた。


そして劉禅君の心の広さは、母のような無償の愛だと想ったのである。


結局のところ、こうした各国の主張を繰り広げる会談の場では、誰もが主導権を握ろうと躍起に成るものだ。


だが結果として考えてみるに、若君の目論見で始まった駆け引きは、楽進の芝居に免じて一度は完全に控えられ手離されたものの、結局はその気の利いた一言により、気づいた時には若君の許に舞い戻っている事に皆が驚かされるという展開と相成(あいな)った。


「じゃあ、そういう事だからさ!伯岐、頼むね♪」


皆の驚きを余所に若君は至って冷静にそう命ずる。


「宜しいのですか?」


張嶷は耳許でボソッと呟く。


「うん!爺ぃ~も居るし、そのために文偉にも来て貰ったんだ♪只耽(したん)元倹(げんけん)も脇を固めてくれているから、心配なかろう!それに客の案内を務めるのも、大都督としての立派な公務だからね?そこんとこ、君になら判るだろう…伯岐君♪」


見ると若君は悪戯っ子の瞳でこちらを見ていた。


『またか…』


張嶷は苦笑う。


(とど)のつまりは、またぞろその権限を最大限に活用せよという事らしい。


南郡城主から異例の技躍で大都督に登り詰めた張嶷であるが、今のところやった事と謂えば、若君の露払いのような役割のみであった。要は(てい)のよい遊軍である。


但し、権限の委譲された遊軍だ。一切、お伺いを立てなくて良いから、好きにやれという事になる。


張嶷は想わず吐息を漏した。これはこれで厄介な事なのだ。どうも若君は、時に禅問答のような言葉遊びを仕掛けてくる。


『考えよ…考えて励め!』


そう言っているように想えてならない。


今回の事だって、その言葉の裏にいったいどんな意図が隠されているのか判ったもんじゃない。


言葉通りに受け止めれば、その裁量で善きに計らえという事になるが、その顔がそうは言っていない。


あの悪戯っ子の眼差しがそれを物語っていた。


『はて?どういう事なんだろう…』


張嶷は考える。


ひとつ判る事は、こうした禅問答は、必ず衆人環視の許で行われるため、他人には判らぬ事が肝要であり、張嶷にだけ判るように示唆された、ある種の目配(めくば)せのようなものである事だ。


前回は呂蒙来襲の折りの会議で行われ、その時は、暇をやるから狩りを愉しめと言われて、わざわざ場所を指定されている。


結果、張嶷はその期待に見事に応え、救援に来た孫登君の身柄を確保する事に成功した。


それが呉を味方に引き込む切っ掛けとなったのだから、その事実ひとつをとってみても、今回のお役目がそう単純で無い事だけは、張嶷にも理解出来たのである。




『おやおや…待てよ?』


彼はその時、ふとした勘が働く。それは閃きというよりは、経験に基づいた理屈だった。


張嶷は反射的にチラリと視線を傾け、ある人物を眺める。心無しか影の薄い彼の事に注目している者は、誰一人として居なかった。


けれどもよく見ると、物欲しそうな顔をして皆の顔をチラリチラリと順番に見ている。それはまるで、拾ってくれるのを待ち侘びている捨て猫のようにも見えた。


『成る程…そういう事か…』


この瞬間、彼には判ってしまった。どうやら今回の指令(ミッション)は、その捨て猫を拾う事から始まるらしい。


『やれやれ…』


標的となるその子猫ちゃんは、相変わらずチラリチラリと拾ってくれそうな人を探すように、物欲しそうな視線をくれている。


そしてちょうどその時に、その瞳が然り気無く眺めていた張嶷の瞳と、偶然にも衝突してしまった。


まさに貰い事故にほかならないが、如何にも哀れを感じさせるその瞳は、吸引力が凄すぎるのか、引き剥がそうとしても粘着力が強すぎて剥がせそうに無い。


まるでここで会ったが百年目と謂わんばかりに、張嶷だけが頼りだとその瞳は訴え掛けていた。張嶷は本来なら、諸手(もろて)を上げて温かく迎え入れてやるところだが、却ってイラッとして一方的にその瞳を遮断する。


日頃は優しい男である張嶷も、女々しく写るその受け身の姿勢に、すっかり腹を立ててしまったのだ。するとその瞬間、その若者はその拒絶を敏感に察して、ガッカリしたように目を臥せる。それはまるでこの世が終わったと謂わんばかりであった。


『大袈裟な…』


張嶷は溜め息を吐くが、見ると今にも泣きそうな顔をしている。それは虚ろで濁っていて、魚の腐ったような目にも似ていた。


さぞや失望したのだろう。落胆の度合いが如実に感じられる。


『勘弁してくれ…』


彼はその鬱陶しさに辟易した。


仕方無く、張嶷は若君に視線を移す。彼としては、特に助けを求めた訳では無いが、反射的にそうしたところをみると、そういう気持ちが無かったとも謂えまい。


ところが驚くべき事には、劉禅君は却って感心したようにフフンと鼻を鳴らした。どうやら一連の状況を、じっくりと観察していたようである。


何ていけずな主人だろうと、張嶷は想わず言葉に窮した。すると若君は首をクイッとだけ振り、彼の視線を再び涙目の男に促す。


その瞳は相も変わらず悪戯っぽく光るが、笑みが溢れているところを見ると、嬉しそうだ。どうやら悪くないという事らしい。


(とど)のつまりは、ここまでの張嶷の行動を貢定しているように見える。


『やっぱりか…どうやら正解を引き当てたらしい。すると嫌でもあの子猫ちゃんの望みを叶えてやらねば成るまいよ!』


張嶷が然り気無く視線をくれると、その若者は既に意気消沈している。


『全く!泣きたいのはこっちだよ…』


彼は再び溜め息を漏らすと、若君に視線を戻した。


『さぁ、どうする?』


若君の方は、そういった表情で彼を待ち受けている。まさに前門の虎、後門の狼である。


既に若君は張嶷がいったいどういう答えをもたらすのかと、期待を(にじ)ませて待っているので、ここはひとつの正念場だった。


『やりますよ...やればいいんでしょう!』


どうせ君命は絶対である。それに答えが判っているのに、やらない手は無い。


そしてこれはおそらく、張嶷にしか出来ないと踏んでの指令(ミッション)である。この若君は閃きが(きら)めく時は、大胆に方針を展開する事はあっても、考えもなく方向転換する事はない。


予め計画に沿った行動を好む人だ。要は端からそのつもりだったという事になる。


ならばその若君の計画に、彼が齟齬(そご)(きた)す訳にも行くまい。今回の計画には若君は勿論の事、荊州の者全員の夢がかかっている。


恒久的平和に続く道に(くさび)を打ち込むという事だ。だったら、やるしかあるまい。


『判ってるなら、予め言って下さいよ…』


いつもの事ながら、張嶷はそう目で訴える。彼の目力は強い。狩人の眼光だ。


その目力を受ける時、若君は必ず張嶷が正解をもたらすと承知していたから、クスリと笑みを浮かべる。


『全く!調子良いんだから…言いますよ!言えばいいんでしょう♪』


張嶷はこれで正解だと謂わんばかりに、口を尖らせる。嘘の付けない彼らしい反応だった。


「君命であれば、喜んで♪時に若君!若君は昨日、太子様の望みを叶えて差し上げました♪如何でしょう!誠に好い機会ですから、この際、曹丕様にも同行して頂いては?不肖張嶷がご案内、(つかまつ)りたいと存ずる!」


彼はそう口上を述べ、(ひざまず)く。


その際、彼はチラリと然り気無く、子猫ちゃんを横目で見た。すると先程まで不孝を一身に背負(しょ)ったように項垂(うなだ)れていた男が、途端にキラキラとその目を輝かせている。


『全く!いい気なもんだよ…』


張嶷はそう思いながら、若君のお達しを待った。




「それ好いじゃない♪」


若君は開口一番、そう宣う。


そこには今、気づいたと謂わんばかりのお(とぼ)けさすら感じられた。大した役者振りである。知らなければ、こちらが騙されそうだ。


『猿面冠者め…』


張嶷はひとりそう想い、いけすかない顔をした。余り大っぴらにやるとせっかくの芝居がぶち壊しになるので、控め目に抑える事も忘れない。


「如何です?閣下!お許し頂ければ、そうさせて下さい♪何しろ僕は、昨日約束しちゃったでしょう?約束とは守るためにあるのですから!そう閣下も想いますよね?」


気のせいか"約束"という言葉に力みが感じられて、曹操は何かを感じとったらしい。すぐに答えた。


「そうでした!良い機会じゃ♪お前も見聞を広めると良い!さぁ、若君のご配慮に礼を言いなさい♪」


閣下は息子にそう諭す。


曹丕は襟をを正すと、すぐに答礼に及んだ。


「これは若君♪格別のご配慮に感謝致します!何分、愉しみにしていたもんでして、はい♪どうしようかと、迷っていたところでしたので助かりました!」


至極、素直なその答礼は、残念ながら彼の品格を下げてしまう。閣下は不肖な息子にガッカリしたように嘆息した。


そしてこれには北斗ちゃんも困ってしまう。そういう意図があった訳じゃないので冷や汗を掻く。


でもこればかりは相手あっての事なので、仕方が無い。今までは名優揃いだったこの芝居も、とんだ大根役者の登場に、その場に拭えない汚点を残す。


これでは、まるで劉禅君が意図的に閣下を暗に(おとし)めたようにすら、見えるだろう。


『あらあら…言わんこっちゃ無い!』


張嶷は完璧主義者の若君が、陥り易い墓穴を掘ったと想った。


『だから予め相談してくれたら良かったのに…』


おそらくそうすれば、その言葉の応酬から自然さが失われるかも知れない。若君が事前の相談抜きに禅問答を仕掛けるのは、その自然さを大切にせんがためであった。


だから敢えて張嶷から、あ・うんの呼吸で提案を引き出したのであろう。そこまでは完璧だったのに、とんだ味噌をつけたのは、言わずもがなのあの子猫ちゃんだった。


『待てよ…』


張嶷はその時に想った。もし仮に、あの子猫ちゃんがとんだ曲者で、大根役者どころか名脇役をずっと演じ続けていたとしたらどうだろう。


周りの者たちには確かに(さげす)みの目で見られるかも知れないが、父親をコロッと騙し、劉禅君を一気に窮地に追いやり、自分は馬鹿な振りをしながら、この状況を誰がどう挽回させるのか、高見の見物を決め込む事が出来るのだ。


今まで散々ぱら低く見られていた彼が、一気に逆転を印象付けるには、これ以上は無い機会だった。三國の首脳が揃った場で行うには、かなりの危険(リスク)を伴う蛮行だろうが、当たれば大きい。


確かに大国の太子が行うには、些か危険な行為ではある。しかしながら、現状を見ても劉禅君には大きく水を開けられ、呉の太子・孫登君にすら及ばないと見られている彼にとっては、これ以上失うものは無い筈だ。


やってみる価値はあり、むしろ当たれば大きな跳ね返りが戻って来るし、失敗しても馬鹿な振りを決め込めば良い。


人を貶めるに手段を選ばないところ何ぞ、まさに閣下の血を分けた息子だろう。


『まさかな…』


そう考えた張嶷だったが、そこに確信は無かった。


『考え過ぎだ…』


結局、彼にはそう結論付けるしか方法がない。つまりは彼自身も行き詰まった事になるから、その場の空気を考えても口に出すのは(はばか)られた。


論じるだけでは駄目なのだ。何の証明にも無らず、場を却って混乱させる。


もしかすると彼が恥を掻く事で、若君に何らかの示俊を与える事が出来たかも知れないが、核心を突いていなければ道化役者にすら成るまい。恥の上塗りにも成りかねないから、さすがの張嶷も躊躇(ためら)う。


するとここで、けたたましい笑い声が突然起きた。それは若君の背後で起こり、皆が当然の如く一斉に注目する事になったのである。




それは何と費禕であった。彼は然も可笑しそうに口を挟む。


「これはお茶目な事ですな♪子桓様にもそのような悪戯心があるとは、この文偉、感服致しました!うちの不肖の弟子は、未だに子供でしてね…人を試さずには居られないのですよ♪見ていて、とても鼻持ちならないものを感じます!私の見るところでは、貴方はどうやら奥床(おくゆか)しい方とお見受けします♪但し、反骨心は些かも失われていないようだ!でもお粗末な仮面を脱ぐなら今しか在りませんぞ♪本当の馬鹿はその時を見極められずに見落としますが、馬鹿の振りをしている賢者は身の振り方を心得ている者!貴方も、この場でその仮面を外して貰いたかったのでは有りませんか?そうでしょう♪若!あんたもです!!いつまでも(とぼ)けて演技を続けるのは止めなさい♪ここは会談をする神聖な場です!」


費禕は日頃の(つつ)ましやかな仮面を脱ぎ去り、かつての師兄の顔に戻っている。これには、まず(くだん)の若君が降参(ギブアップ)した。


「判るか?…なら仕方無い!今回の目的は、この場で曹丕殿の反応を見るために仕掛けた罠…否、遊び心だ♪結果、僕も文偉と同じ結論に達していた!周りを(あざむ)き、(さら)には、この僕を窮地にまで(おとしい)れるとは見上げた根性だ♪少々鼻につくのは困りものだが、まぁ文偉に言わせるとそれは僕も同じらしい…要は似た者同士って事だね?うちの父上(劉備の事)もそうだが、一代でその身を極めた人たちは、なかなか二代目の才気を認めるのがお嫌らしい。僕は幸いな事に、丞相の吹っ掛けたお題目を解いて、ギャフンと言わせたから、父も信ぜざる逐えなかったようだが、貴方の場合は気の毒だった。閣下は稀代の英傑だから、人筋縄では行かないでしょうからね?よく耐えられた!感服だ♪だからもう演じる必要は無いのですよ!貴方はとても高貴な御方だ♪そろそろ一人立ちしても宜しいのではありませんか?」


費禕の暴露を受けて、北斗ちゃんも真摯に種を明かしたので、その場は騒然となった。


皆の注目は費禕から若君へと移り、今度は曹丕に行き着く。当初の予定では、高見の見物と洒落込むつもりだった曹丕も、皆の注目を浴びるとそうも問屋が卸さなくなってしまった。


彼はまず二ヘラと奇妙な含み笑いをすると、至って素に戻る。そして溜め息を漏らすと、諦めたように語り出した。


「そうですか…やはり若君は、端から承知されていたのですね?でもお互い様ですから、恨みっ子無しですよ!」


曹丕は、試していたのはお互い様である事をまず強調した。この時、閣下は息子の化けの顔が剥がれた事に驚き、息子をまるで人で無しの様に見つめていた。


それが嬉しかったのか、曹丕は見てない振りを決め込みながら、ニヤリと再び笑みを浮かべる。


「それに文偉殿でしたか…貴方の推論には感服しました!仰る通りで、何も付け加える事が有りません♪それに貴方の言葉には確信を持った響きがありました!そうでなければ、私ももう少しのんびりと居られたのに残念です♪最後に、妙な事に付き合わせてしまった伯岐殿にもお詫び申し上げます!」


今度は先程と違い、礼に適った所作で丁寧な挨拶に及んだので、これには張嶷も戸惑ってしまった。してやられたと想ったのである。


狐に化かされただけで無く、とんだ狸にも化かされてしまったのだから、彼にとっては泣き面に蜂であろう。張嶷はキッと顔を歪めると、いけすかない顔で若君を見つめた。


若君はドキッとして、惚けた様に口笛を吹く。


張嶷は『やれやれ…』という顔で、矛を収めた。費禕は終始冷静で、曹丕には会釈するに止める。


若君は、ようやく満足げにこう答えた。


「それで良いのですよ♪いつまでも、貴方に(かわ)されてしまっては、満足に話も進みません!文遠殿や文謙殿がご一緒なら、道中心配せず、羽を伸ばせる事でしょう♪うちの伯岐は気の好い奴ですから、きっと気に入ると想いますよ!ご信頼あれ♪」


若君の答礼に、曹丕も「えぇ…勿論です♪」と柔和な笑みを(こぼ)した。

【次回】可笑しな連れ合い

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