熱情の男
浮き足立っていた曹操陣営の中に在って、やはり閣下だけはものが違っていた。
よもやとは想いつつも、彼だけはそこまで想定出来ていたという血の巡りの良さもある。買い被りに過ぎないと想いつつ曹操だけはその懸念を既に抱えていたので、正当な評価だったと判明した後も、事実を受け入れる用意があったのだろう。
但し、そこまで判っていながら、閣下にもどう対応すべきかの用意はまだ無なかった。
彼の心中は複雑だ。高慢ちきな小僧の鼻を折ってやりたいと想う気持ちも少なからずあったので、絵に描いた餅になど真険に取り組む気にはなれなかったのだろう。
こうしてみると、その本能の想うままに受け入れ、早めに対抗策を練るべきだったのだろうが、これだけのものを見せつけられた今、果たしてそんな策が立てられたのかさえ怪しい。何せ人材に関しては魏の右に出る国など存在しない筈だった。
ところがいざ蓋を開けてみると、魏は同じ期間を要しながら、出来たのは漢江峻工のみだ。それに費やした戦力は20万の軍勢である。
それに引き換え、荊州は既存の人材の他、成都から送り込まれた孔明の弟子と謂われる者だけで、後は中華の外から受け入れた移民に頼っているというのが現状である。
数の論理に従えば、どう頭を捻っても、こんな大それた事業を着々と行える筈が無い。曹操は未だ気づいていないが、これが古い観念に縛られている者の限界なのである。
彼は己のお膝元から大量の流民が蜀に流出した事すら念頭に無い。魏でそれに確実に気づいていたのは諜報を担う満寵あるのみだが、途中彼は政治家に転進している事からも判る通り、国が流民対策に本腰を入れる気が無い事を知っていた。
どうせ見捨てる気なら、報告する気にすら成らないし、もし仮に荊州の政策で彼らの命が助かるのならば、荊州に任せる方が良い。特に件の若君は慈愛の心に厚い才気だ。
劉禅君の手に委ねれば、けして見捨てておくまい。必ずや彼ら流民を幸せに導いてくれるに違いない。そう想っていた。
そしてその満寵の賭けは当たったのである。何しろ若君を誘拐する策を想いついた田豫、その協力者であるガンマクや洪赤なども助けてしまうお人なのだ。
その予兆はずっとその前から感じ取れていた。帰るに帰れなくなってしまった満寵の精鋭部隊を根こそぎ受け入れた件である。
但し、そのお陰で管邈の命は助かり、今や彼は荊州で医務官の道に進み、生き生きと過ごしている。そして田穂は衛尉にまで上りつめ、今や自分と同格の一品である。
桓鮮すら今や諜報の頭領でメキメキと頭角をあらわし、若君の信頼も厚い。かくいう満寵ですら、劉禅君の人を分け隔てなく、ちゃんと人として扱う心根に心酔して止まない。
だから同盟しているとは謂え、声が掛かれば素直に嬉しいし、何とか協力したいと想うのだ。今回の事だって、目の上のたんこぶである司馬懿の弱味を握れたのも、劉禅君のお陰だと内心で満寵は喜んでいた。
本人に自覚があるのかどうかは定かではないが、皆いつの間にか劉禅君の人柄に惚れて、自然と協力を惜しまない。劉禅君とはそういう人なのだ。
その最たるものは、何といっても孫登を始めとする呉のお歴々である。呂蒙も陸遜も、諸葛恪でさえ、最早若君と事を構えようなどと微塵も考えちゃあいまい。
それは優柔不断で鳴らした孫権にさえ、今や及んでいた。それでも未だにその若君を警戒の目で見ていたのは、閣下と司馬懿あるのみだ。
無論、それは若君と交流がある者に限られるから、本国の者たちの中には、未だに劉禅君を凡庸な人物だと見ている者も居た事だろう。それだけ、一度その人に付いた噂というものは拭えぬという事らしい。
何れにしてもその警戒の目で見ている筈のひとり、司馬懿は身から出た錆とはいえ、息子二人を体のよい人質に取られて、しかもその事が露見した暁には、彼のもっとも畏れる大王閣下を敵に回しかねないので、只ひたすらに貝になり口を止ざすしか無い。
少しでも可笑しな行動をしようものなら、彼の天敵である満寵がじっと見張っている。全く嫌な奴だと想いはするが、ここは我慢と傍観を決め込んでいた。
そしてもうひとりの男は今まさに正念場を迎えようとしている。三者首脳会談は、こうしてそれぞれの思惑を抱えたまま、遂に幕を開ける運びと成ったのである。
「へぇ~こりゃあ凄いね♪こうして眺めているとワクワクするなぁ!大王、おいらは別行動で宜しいですかね?」
覚悟が今ひとつ固まるでも無く、会談の席に着かざる逐えなくて困っていた閣下の耳に、およそその場の空気を読まない明るい声音が届く。
「コラッ!お前という奴は!!」
そのお調子者に、いの一番に叱りつけたのは張遼だ。ところが彼は、そんな張遼をヒョイッと躱すと、気にもかけずに再び宣う。
「お前さんも変わり者だねぇ~♪こんな機会、滅多に無いんだぜ?活かさん手は無かろう♪」
張遼の制止を尻目に、天真爛漫なその男はそう論じた。まるで垢抜けない天然そのもののその気質は威勢の好さを感じさせる。
『ありゃあ、楽進殿だ!やってくれるな…』
この時、いち早くその意図に気づいたのは他ならぬ張嶷だった。彼にはこの行動が、困り果てているだろう閣下に助勢するもののように感じられたのである。
そしてそれに気づいていた者は他にも居た。
まずそのひとりは、当然の事ながら当の劉禅君だった。けれども北斗ちゃんはクスリと笑うに止めて、その勇姿を眺めるのみだ。
むしろ若君は、関羽が激発しないよう直ぐにその袖を引く。熱り立つ寸前に押し止められた雲長は、何か裏があるのだと察して思い止まる。
そして孫登も気づいた者のひとりだった。
『あいつは大型船で、伯岐殿に絡んでいた奴だな?確か楽進将軍だ…』
孫登も音に聞こえた楽進を知っていた。背は低いが肝の太い男で、呉も度々彼にやられている。
元々は文官だったらしいから、策に長じていても不思議は無い。だから閣下の心情を汲み取る事など訳も無かったろう。
そして押し付けがましく恩を着せる事も無く、只々己が身勝手に装う事で、その身に皆の意識を集めている。
どうせひと悶着起こす事で時を稼ぐつもりの様だが、閣下の懸念は珍しくだだ漏れで、孫登にすらそれは見て取れた。
それだけ劉禅君の打った布石が効いている証拠で、おそらくそれには、当の若君も気づいていた筈だ。
正にしてやったりと謂うところで起きた事だけに、普通なら介入して然かるべきだが、むしろ若君はじっと見守り、介入しようとした関羽大将軍まで止めてしまった。
孫登は想う。果たして自分なら、そこまでの器量を発揮出来ようか。おそらく若君は、男として主を庇う楽進という人に、感じ入ったに違いない。
甘いと言われればそれまでで、確かにその姿勢は甘ちゃんだ。けれどもそれが判っていても、その気持ちに寄り添わずにはいられないのが劉禅君という人の本質なのである。
きっと敵味方関係無く、若君という人に惚れ込んでしまうのは、そういうところに共鳴するためなのだろう。
『残念…』
その時、孫登はそう想ってしまった。せっかく精神的に閣下を追い込む策が成功したのに、自らその機会を棒に振ってしまったのだから、然も在らん。
それというのも楽進将軍が起こした騒ぎひとつで、いつの間にか大王は闇の淵から無事生還を果たした様に、突然クスクスと笑い出したのだ。そしてその笑いはほんの束の間に過ぎなかったにも拘らず、閣下を甦らせてしまったのである。
その騒ぎが持ち上がった瞬間に、曹操はキョトンとした後にすぐ笑いが込み上げて来た。
『あやつは誠に…愛い奴め♪』
孟徳は去りし日の会話を思い出していた。それはある日の出来事だった。
「ねぇ~閣下♪おいらの本当の力は、武将として戦場に出て、初めて発揮出来ると想うんですよね?文官をしてても、およそ閣下にとっては宝の持ち腐れだと想うんです!ねぇ…聞いてます?」
「だがお前は小柄だし、記録をつけさせたら齟齬が無い♪人には向き不向きがあるもんだ!十分、助かっておるよ♪」
曹操にとって、楽進は旗上げの時からの仲間である。肝っ玉が太く、威勢の良い楽進が彼は好きだった。
けれども残念ながらその背は低く、武将向きとはけして言えなかった。
只この男、良く喋る。それだけ頭の回転が早いので、記録をつけさせてみたら、やはり記憶力も抜群だった。
それ以来、記録係で重宝していたのだが、ある日突然、武将になりたいと言い出した。
旗上げ当初から、孟徳と共に戦場を駆け巡る仲間たち。さらには後から入って来たのに、将として活躍する者たちも居る。
自分も殿と戦場を駆け巡りたい。何より活躍すれば、出世も想いのままだ。元々肝は太いので怯まない。
趣味は野狩りだから、弓も上手いし、敏捷いし、音を立てずにじっとしているのも得意だ。そして頭の回転が早いから、必ず獲物にありつける。
素養は申し分無いが、人には無いものがある分、彼には体格が無かった。それでも持ち前の明るさから、額に汗して挫けず地味な記録係を続けて来たのである。
そんな男がある日突然、目覚めたように武将に成りたいという。果たして大丈夫なのかと、不安を感じてもそれは当然の反応というものだろう。
当初は一過性のもので、そのうち熱が冷めたら諦めるだろうと本気で相手にしていなかった曹操も、余りにも熱心に願い出るものだから、遂に彼の方がその熱意に寄り切られてしまった。
「判った!判った!でも何でそんなに武将になりたいんだ?」
曹操がそう尋ねると、楽進は即答した。
「おいらも殿のお役に立ちたいんです♪」
「だが、今でも十分、役に立っておるがのぅ?」
曹操にとっては旗上げ当初からの仲間であり、気心も知れていた間柄だったので、手元から離したくはなかった。それに武将にした結果、初陣で死なれても困る。
あの威勢の良い声が聞こえなくなると想うと淋しい。そこで孟徳は一計を案じた。
「そうだな…今現在、我々には兵が不足しておる。向こう三日以内に、兵を三百集めたら、お前の願い叶えて遣わす♪」
一日当たり百人の兵を集めるのだ。
けして難意度が高い訳でも無いが、その程度の事も出来ない者が、そもそも兵を束ねるのは無理だろう。孟徳は高を括っていた。
『幾ら奴が有能な官吏でも、勝手が違う!現場の厳しさを知るには良い機会だろう…すぐに音を上げるに違いないさ♪』
すると楽進は、少しの間、頭を捻って考えていたようだったが、ふと想いついたようにこう呟く。
「殿!それって一日百人集めれば良い訳ですから、おいらに十日くれませんかね?見事、干人集めて見せましょう♪如何?」
意表を突くとはこの事で、こちらの示した条件を、都合の良いように変えてしまった。
孟徳は一瞬、煙に巻かれたようにキョトンとする。まぁそれでも確かに計算は立つし、同じやらせるなら、三百人よりは干人集まった方が良い訳だから、渋々その条件を飲む事にした。
「よし!判った♪十日で千だ!出来なければ、今後二度とこの話は無しだぞ♪それで良いな?」
孟徳は念を押す。これでこの件は終いだ。二度と煩わされなくて済むだろう。彼はそう想っていた。
ところがである。それから十日後に、楽進は見事、千人の兵を集めて戻って来たのだ。
「殿!どうです?お約束通り、きっちりと千人集めて戻りました♪数えて貰って構わないですよ!一人たりとも欠けちゃいません♪これでおいらの望み通りにしてくれますね?」
改めて、楽進は満面の笑顔で願い出た。
そのとても満足した様子に、孟徳も想わず顔が綻ぶが、情に流され、絆されてはいけないと、条件の精査は厳密に行う。
すると驚いた事には、本当に千人の兵が揃っていたので、これにはさすがの孟徳も仰け反る。まさに開いた口が塞がらなかった。
口をあんぐりと開けて、呆けている曹操を眺めていた楽進は、嬉しそうにケラケラと笑う。殿の驚く表情が、自分の成果をそれだけ物語る。無邪気な彼は素直にそう思ったのだ。
孟徳は小柄な彼の中にこれ程の熱情が秘められていた事に感動し脱帽した。この男なら必ずやその小柄な体躯をその知恵と工夫と熱情で補って余りある。そう想ったのだ。
そして楽進の原動力には、孟徳に褒めて貰いたいという細やかな望みが根底にある。何て愛い奴よと、孟徳はその可愛げも相まって、楽進が武将として成長してくれる事を望み、抜擢する事にしたのだった。
「良かろう!お前の望み通りにしよう♪」
曹操が約束を守ると、楽進は満面の笑みで応えた。その小柄な体躯からは、溢れんばかりの活力が漲るのを感じさせた。
「本当ですか!やったぁ♪やったぁ♪♪」
楽進は小躍りして喜んでいる。
『愛い奴よ…』
孟徳はこの時に、代えの効かない勇将を手に入れる事に成った。
それからの楽進はめきめきとその頭角を現し、戦いに出ればその知恵と工夫で必ず一番乗りを果たした。
弓の腕が良すぎるためか、そればかりに焦点が当たるきらいはあるが、肉弾戦でもけして負けては居ないし、然りとて躱したり、いなしたりする柔軟性も在ったからだろう。
「殿!目論見が当たりましたな♪さすがは我らの殿です!」
その度に楽進は孟徳の采配が良かったのだと嬉しそうに感謝を示す。一見すると、ヨイショしているように見えるこの振る舞いも、彼の威勢の良さが見事に打ち消し、けしていやらしく見えない。
それに皆、その想いを知っていたのだ。
『殿が抜躍してくれたから出来た事です!』
それは一重に感謝の気持ちから出た言葉だった。彼はその気持ちをずっと忘れていない事を絶えず示し続けていたのである。
『愛い奴じゃ…』
その度に孟徳はそう想ったものだ。そして彼を抜擢した事を後悔した事は唯の一度も無かった。そしてこの小柄な身体のどこにそんな炎が宿っているのかとむしろ感心するばかりだった。
『文謙の機転にまた救われたな…』
孟徳は嬉しそうに楽進を見つめた。楽進もまた、熱い眼差しでこちらを見つめている。
曹操は思い悩み過ぎたせいで、肩に力が入り過ぎていた事に気づき、切り替える。そして自分を救ってくれた盟友に、応える様に口を開いた。
「文謙♪そんなに気に入ったか?」
「はぃ!だって、ここから眺める景色は素晴らしいの一言です♪是非、下りて色々観たいし、体験したいなぁ♡」
「そうか…少し待て!」
閣下は招待主である劉禅君を振り向くと、すぐに頼み込む。そのケロッとした表情には、もう戸惑いは欠片も無かった。
それはまるで楽進の活力が、閣下に伝染した様にも感じられたのである。
「若君!どうですかな…許可頂けますか?」
一連の動きを冷静に見つめていた北斗ちゃんは、クスリと笑うと言った。
「えぇ!構いませんとも♪どうせ隠す事なんて有りませんし!何なら案内係に、うちの張嶷を付けましょうか?どうやら彼らとは面識があるようですからね♪」
若君もお気楽にそう答えたので、その場はすっかり和んでしまった。そしてその瞬間に、その若君の顔を驚くように見つめた者たちがいる。
当の楽進は勿論の事、それは叱りつけた張遼や閣下にも及ぶ事になった。若君は何の迷いも無く"彼ら"と言った。
一見すると、それは大型船で披露された彼らの狩りを通じての友情に免じたとも取れる。けれどもその言葉には、皆が気づいていなかった意味合いが込められていたのだ。
そう…呆気らかんと始まったこの芝居は、何も楽進だけのひとり舞台ではなく、この猿芝居には叱りつけた筈の張遼もまた、噛んでいたのである。
おそらく張遼は叱りつけた裏で、内心舌を出していたのだろう。けれども端から若君にだけは見破られていた。そういう事に成ろうか。
それが証拠に、楽進は目を白黒させて落ち着きが無いし、張遼は驚きの余り、目を剥いている。そしてもっともびっくりしたのは閣下その人だった。
【次回】孤高の人




