この景観に誓う
程なく孫権一行が到着すると、若君は彼らを先導して展望台へと向かう。勿論、一行の中には呂蒙と陸遜が含まれるが、よく見ると見かけぬ顔が混じっていた。
「あれ?丞相!それに賀斉まで?これはいったいどういう…」
孫登はどういう風の吹き回しかと問いたいらしい。けれども思いがけず、山越に使いにやった賀斉が混じっていたので、言葉を濁す結果となったのだろう。
すると案の定、賀斉はすぐに答えた。
「あぁ…あっしはそもそも若様の直参ですから、用が終われば元の鞘に納まります。当然ですな!まぁ、報告次いでに付いて来た訳です、はい♪」
賀斉は相も変わらず、煌びやかな形で、自慢の折れ曲がった髭を擦る。余りにもキラキラと輝く鎧を身に纏っているせいか、変に目立ってしまい、劉禅君には妙な顔で見られた。
さすがに似た者同士と、あの田穂を引き合いに出せば、異議申し立てを喰らうかも知れないと孫登は苦笑する。
クスクスと笑う太子を尻目に、変な事を言ったかと自ずと振り返る賀斉もまた、その身形に似わぬ真面目な男だった。
一方の顧雍はといえば、道悪の街道を馬車に揺られて急行したものだから、車内であっちこっちに身体をぶつけて痣だらけだ。
身体はヒリヒリするし、昼夜兼行だったために、すっかり疲労困憊である。
そのせいか口数が少なく、本来であれば丞相として、孫権の傍でその社交性を発揮せねば成らないところを、体よく呂蒙と陸遜に押しつけて、自分は数併せのおまけ宜しく賀斉の腕を掴んで離さない。
賀斉からすれば、いい迷惑なのだが、丞相が暗に反して荊州に下行すると聞きつけて、便乗したのだから文句も言えなかった。
その顧雍も江陵砦から先の道中にはぶったまげた。街道がきちっと整備されて、碁盤の目を想像させる。
お陰で日頃しつこくねだられて辟易している張昭の爺の顔が想い浮かび、脱力感すら感じる始末だ。
けれども、成る程…百聞は一見に如かずとはまさにこの事で、顧雍もその御多分に漏れずに驚き呆れた。
道が平だから、馬車が揺れる事すら無い。ましてや、荒れ道の起伏や石コロなどで馬車が飛び上がったりする事も無かった。
この点だけに焦点を絞ってみても、彼我の力の差は明らかだろう。何せ見た事も無い程の、大型船を造船出来る土木技術が彼らにはあるのだ。
実際に骨身に沁みる経験を経て、顧雍は太子様の言葉が然して大袈裟なものでは無くて、その核心を詳らかにした事実なのだとようやく腹に落ちた。
もう既に劉禅君を江東に呼びつける気などサラサラ無く、観たものをすっかり受け入れる気になっていた。
よく観ると、この荊州には全くといって良い程に付け焼き刃感が無い。碁盤の目にきちんと整頓された道筋がそれを証明している。
そして立ち並ぶ家や商店も、その街道に溶け込む程に妙にしっくりと来ており、住民たちの表情にも明るさがあった。
最早、この荊州をすっかり見違えるが如くに改造してしまったのは明白だろう。
『来て良かったかも知れん…』
顧雍は既にそう想い、この先の結末に観念していた。今後は孫登様の支持に回り、その手足としてこの身を粉にして働く事…。
顧雍はそこまで思い詰めていたのである。すると目立たず、後に着いて行っているのを良い事に、太子・孫登が話し掛けて来た。
「丞相!どうかな?私の言っていた事を信じる気になったかい♪」
その顔は特に得意げでも無く、むしろ時が無いと焦りすら感じさせた。そらぁそうだろう。元々は予定していなかった飛び入り参加者なのだ。
三国の首脳が集まる公式の場で、自国の足並みの乱れは見せたくない。特に心酔している劉禅君の足は正直、引っ張りたくは無かった。
何しろあの大王閣下を向こうに回して、立ち回らねばならないのだから、それだけでも大事である。
その神経を最大限に研ぎ澄ませて、暗闇の中に光明を見出ださねばならないのに、余計な火種は残したくは無かった。それが正直な気持ちだったのだと謂える。
顧雍も伊達に長年、丞相の席に胡坐を掻いていた訳では無かったので、太子様の懸念をすぐに察した。
「えぇ!それは無論です♪こう次から次へと矢継ぎ早に目に入って来るもの全てが新鮮なもので、正直圧倒されております!件の若君は、もしや打ち出の小槌などを持っているのでは在りませんかな?」
特に利き耳を立てていた訳でも無かろうに、顧雍があの閣下と全く同じ感想を口にしたので、想わず孫登はプッと吹き出す。
彼の焦りはその笑みと共に消え去った。ある意味、天啓だと感じたのかも知れない。
何故なら遥か彼方に居た筈の丞相が、閣下の声を聞く事なぞ出来る筈も無いからだ。もし仮にそんな事が出来るとすれば、それは最早人間技では無い。
大した地獄耳という事になる。その時、孫登は妙に判った気分になっていた。
人は経験を積み重ねて、ある程度の域まで洗練されると、同じ境地に立つのかも知れないと想ったのだ。まぁそんな事は考えてみても証明は出来ないので置く事にして、孫登は安堵しながら答える。
「それを聞いて安心したよ♪丞相が味方に付いてくれるなら、まさに鬼に金棒だ!遠慮なく頼りにさせて貰うとしよう♪」
どうやら自分は当初、門外漢と見られていたらしい事は、顧雍にも察せられた。本来、けし掛けたのは当の太子様である筈なのにである。
顧雍の読みはこうだ。漢江峻工の式典が行われる事になり、そうなるとどうしても他の二国の首脳も嫌でも参加を余儀無くされる。
表向きは三国全てに寄与する大河を制御したのだから、お祝いに駆けつけて然るべきだ。そして魏には大国としての圧力もある。
鯔のつまりは、飴と鞭を同時に発動されたようなものだから、抗う術は無いのである。
おそらくはそれを逆転の発想で利用する事にしたのだろう。否…少なくとも劉禅君ならば、その機会を捉えて、必ず有効活用するに違いないと孫登君は踏んだ。そんなところか。
そうなると一気に恒久平和への道に拍車が掛かるかも知れないと、太子様も石橋を叩いて渡る必要に迫られたと謂う訳だ。
今現在、保守派の勢力は、長老である張昭殿が太子様支持を表明している事により、会盟に待ったをかけているのは、丞相の自分を支持する改革派の勢力のみである。
必ず機会均等を標榜して来た太子様にとって、劉禅君の意見を聞くと約定した以上は、改革派との約束を反古にし、無視する事も出来なかったのだろう。
だから長老の張昭殿を通じて自分をけし掛け、荊州に来る気になるように上手く仕向けた。そういう事に成ろうか。
もし仮に太子様の考えが杞憂に終わり、会盟がこのまま順調に進まなければ、それはそれで良いのである。これはあくまでも保険なのだから、平等を期した事で最悪の事態は回避出来るのだ。
『やれやれ…こいつは参ったな!爺の口車に乗って来たら、すっかり矢面に立たされてしまった♪こうなった以上は、もう腹を括るしか道は無いか…まぁ何れにしても、交渉をするのは劉禅君のお役目らしいからな♪私はせいぜい我が国に不利益と成らぬ様に、利き耳を立てるとしようか…』
先程までは現実を直視させられた事で、諦めにも近い気持ちに支配されていた顧雍であったが、来た以上はしっかりと状況を見極めなければならない。
太子や長老に乗せられた上に、何も成さなければ、それこそ子供の通いになってしまう。単純に傍観を決め込む訳にも行くまい。
彼がそう考えていた調度その時、いみじくも太子が言葉を継いだ。
「敢えて言っておくが…」
顧雍が改めて太子を直視すると、当の孫登はいつの間にかその表情から笑みが消えて、真険な眼差しで自分を見つめている。顧雍は必然的に緊張しながら耳を傾けた。
「私は呉の太子である事を片時も忘れてやしない。だが同時に江東の利益を優先にするつもりも無い。何故なら、我が国の行く末はこの話し合いにかかっていると信じているからだ!」
孫登はまるで丞相である顧雍の目論見を見透かしたように、ジロリと視線を突き刺す。
顧雍は一瞬、ドキリとして目が泳ぐ。すると孫登はフフンとほくそ笑んだ。
「一目瞭然とはまさにこの事で、丞相も実際にその目で見たからもう理解出来よう。彼我の差は最早明白なのだ。つまりその立場は逆転した。荊州は…否、敢えて蜀はと言っておくが、既に三國最弱では無い。荊州の開発に成功した事で、今や肥沃な穀倉地帯を有し、自給率は格段に跳ね上がった。海洋交易による経済効果も今や三國一だろう。その二つに支えられた莫大な資金により、軍事力すら予測出来ない程の爆上がりだ♪つまりはだ!元々魏にすら対抗しかねていた我々は、今や蜀…否、荊州にすら抗う術を無くしているという事になる。我が国の誇る名将である呂蒙や陸遜ですら、奇襲攻撃に失敗したのが良い例だろう…」
孫登は溜め息を漏らすと、念を押すように釘を差す。顧雍は再び嫌でも現実を直視させられる羽目になった。
「いいかい?貴方は我が国の丞相だから、国を守り導く義務がある。それは私も重々承知の上だ。だがもう我々はどう転んでも魏や蜀に抗う事は出来ない。だが唯ひとつ光明があるとすれば、それは劉禅君の存在だ。彼には他国を軍事力で攻略しようという気がサラサラ無く、平和的にこの中華をまとめたいという願望がある。否…もう願望という域は越えたかもな?粛々とその実現に向けて、一歩を踏み出しているのだ。私はその劉禅君を信ずる。そしてその理想を支持する。我々が生き残る道はそれしか無い。只ひとりの男を信じて、国の命運を委ねようなんて正直笑っちゃうかも知れないけどね!」
孫登君は被虐的とすら思える表情で苦笑う。けれども確かにこれ程の彼我の差があれば、それも仕方無いという他無い。
太子様は荊州との和睦を経て劉禅君と出会い、その現実を知ったのである。こればかりは幾ら耳で聞いても仕方無い。
その現実を実際に自らの目で直視しない限り、信ずるのは難しいだろう。丞相である顧雍がいみじくもそれを証明した事になるのだ。
彼は静かにコクリと頷く。確かに太子様の言う通り、只ひとりの人物に国の命運を委ねるのは危険な事だ。
万が一にも劉禅君が急逝した場合、巻き込まれる恐れがある。けれどもそれが判っていながら、それに賭けるしか道が無い事に、顧雍は現実の厳しさを感じていた。
最早、この現実は覆しようが無い。この現実を知らなければ、まだ彼も抗う気満々だったのだろうが、今はもうその気にも成れなかった。
むしろ知らないまま、その気になっていたら、却って自身の手で国を誤った方向に導いていたかも知れないのだ。
それを思う時、ひやりとせずにはいられなかった。それが正直な気持ちである。だから顧雍は賭けに出た孫登君の気持ちを察して支持した。
「仰る通りですな…最早、それが最善の道でしょう♪我々の姿勢を現時点で明確にしておく事!それが大事です。そして劉禅君の支持に回る以上は、その助けとなり、守らねば成らないでしょうね?」
顧雍がそう答えると、孫登君はニコニコと笑いながら、我が意を得たりという顔をした。
「そうそう…そういう事!さすがは丞相だ♪判って来たじゃないか?まぁ仮にも、伊達や酔狂で丞相なんて出来ないからな!然も在らん♪でもそれを既に実践している者たちは居るけどね!悪しからず♪」
孫登がそう言って顎をしゃくると、顧雍は反射的に首を傾ける。その先には呂蒙と陸遜が居て、語り合う孫権と劉禅君にべったりとへばり付いていた。
勿論、劉禅君には元々張嶷と田穂が張り付いてはいるが、二人の警護は孫権のみならず、件の若君にも及んでいるように見えたのである。
『なっ!伊達や酔狂とは恐れ入る!』
顧雍はまず恨めしそうに太子を一瞥すると、それでも直ぐに切り替える。
『成る程…太子様の小飼の連中は、既に実践中ですか!こりゃあ、参ったな♪』
顧雍は苦笑しながら白旗を掲げた。彼自身はその二人を矢面に晒して、自らの存在感を煙に巻くつもりが、彼らには端からそのつもりは無く、太子様と同じ目線、同じ姿勢で自分達に出来る事に既に専念していたのだ。
こうなるとひとり弱腰に転じていた己が馬鹿に見えて来るというものだろう。彼の苦笑いの原因はそこいらに有りそうだった。
太子様が毒舌に及んでもそれは仕方在るまい。彼の弱腰に対する叱咤激励と思うほか無かった。
「フフフッ♪でも判ってくれて良かったよ!これで我らは真の意味で一枚岩に成れるというものだ♪若君の手前、足並を乱す訳にも行かないからね?」
孫登君はようやく本音を吐露する。
顧雍もこれで覚悟が決まった。
孫登は、ニコやかに父・孫権の案内に立つ劉禅君の朗らかな表情を頼もしそうに眺めている。自信に満ち、それはまさに堂に居っていた。
こればかりは気合いや覚悟だけで出来るもんじゃ無い。勿論、それも伴うだろうが、人には言えない苦労の数々が偲ばれるというものだ。
その経験の積み重ねが、その泰然自若振りに表われているのだと孫登は想ったのである。それは彼の目指す頂が、益々遠退いた事を物語っていた。
それでも孫登は、今後もその頂を目指す気持ちに変わりは無かった。
「やぁ〜お待たせして申し訳ありません♪」
若君が坂を登り切り、待たせた非礼を詫びようと顔を上げると、用意された椅子に着席していると想われた曹操主従は皆、展望台の端に築かれた柵に手を置き、眼下を穴の開く程、見つめていた。
その視線の先には荊州の中心地は元より、その中心地にまで掘り進められた運河、そして内陸には珍しい港が広がっている。その港を囲む水路の真ん中に出来た島の上に造られた、展望台に自分たちが今居る事に驚くばかりの様だ。
勿論、それだけでは無かろう。その港には何隻もの大型船が連なり、下って南海を目指す船や、今まさに帰国然ながら上って来る船も眺められたに違いないのだ。
劉禅君は海洋交易にも既に着手していた。運河など到に完成していたのである。
『見れば判ります♪』
その自信に満ち溢れた物言いは、全てこの瞬間にこそ集約されていたのである。そう改めて感じさせられる事になった閣下は、若君の掛け声に気づき、振り向くと唖然とした顔で呆けるしか道は無かった。
その顔には、人成らぬ者を見る驚きすら見て取れたのである。若君も咄嗟にキョトンとした眼差しで閣下を眺めるが、その表情を見て取ると、自ずとその目論見が当たった事を理解した。
そこで差し障りの無さそうな言葉を考える。何しろ先方は言葉を失っているようなので、何かしらこちらから話し掛けるしか無い。
大河の峻工を成し遂げた自信の欠片すら、最早彼らから感じる事は出来なかった。
「どうです?我々が今後の事を話し合うには恰好の場所でしょう♪この展望台は僕らの夢への結晶なのです!その想いで準備し、今日その念願が叶いました♪そしてこの眼下に見ゆる景観こそ、僕の言葉がけして絵に描いた餅では無い証です!有言実行…これが閣下の問いに対する僕の答えです♪」
北斗ちゃんは正々堂々とそう告げる。
時は万人に対して平等であるが、それはその人の置かれた立場にも依りけりなのだ。
鯔のつまりは、人の上に立つ者の判断と実行力により、その差は広がり続ける。そういう事に成ろうか。
計画と実行に於いて、些かも時を無駄にする事無く、完走して来たのはむしろ僕たちだ。若君はそう示した事になる。
天下統一に異議を唱えるのなら、その代案を示せと、厳しい言葉を投げ掛けた閣下に対するこれがその答えだった。
そして若君はやる気になればこれだけの成果が得られる事を、その手本として示したのだ。目の前に在る以上、誰も否定は出来まい。
中華が全て平和になる事。即ちそれは皆がこの果実を享受する事だった。そう謂えるだろう。
最早、批判する者はひとりも無かった。閣下は静かに若君の言葉を受け入れるに任せ、只一言「良かろう!」と言った。
【次回】熱情の男




