両雄相まみえる
大王一行を乗せた人力車は港町に近い波止場に滑り込むと停車する。そこには既に若君が満を持して待っていた。
「本日は約束を守って下さり感謝に堪えません!お待ちしておりました、閣下♪道中は如何でしたか?なかなか愉快な乗り物でしょう♪」
劉禅君は屈託の無い笑みで語り掛けて来る。その傍らには、既に孫登ら江東の者たちが控えていた。
曹操は瞬時に訝しむが、道中の様子に圧倒されていたせいか、ひとまずは置く事にした。
それによくよく眺めるに未だ孫権は来ていない。自ら申し出る程、来る事に意欲を見せていた割には行動が伴わぬと、彼は笑みを浮かべると答礼した。
「否何、劉禅君もお人が悪い!貴殿は正に打ち出の小槌の様な御方ですな?余程、人を驚かせるのがお好きと見える。正直、観るもの全てが斬鮮で驚いております♪」
曹操の瞳は爛々と輝き、まだ死んではいなかった。件の若君にはその手法は違えども自分と似ているところがある。それは直向きさであった。
曹操は長年、天下を我が手に握るために邁進して来た。そのためなら何でもした。
『我が天下の人に背くとも、天下の人を背かせはしない…』
そういった強い意志を示し、ここまで戦国の世を駆け抜けて来たのである。
一方の劉禅君も、自らの信念の許に戦いを避け、恒久的平和を目指して、迷う事無くここまで辿り着いたのだ。
元々曹操は、口の達者な者の言葉を素直に受け入れる事は無い。警戒し、常にその言葉の裏を読もうとする。
彼が根っからの疑り深い性格なのもあるが、そもそも言行が必ずしも伴うものでは無い事をその経験上、知っていたからだ。
よく喋る者は確かに頭の回転は早いのだろうが、言うは所詮易しなのである。彼は実が伴わない者はけして認めない。
当初、曹操はこの小賢しい小僧をそう見ていた。けれども違った。
『見れば判ります♪』
そう言った劉禅君の言葉は正しかった。今ならそれが判る。けして時を無駄にする事無く、件の若君はやってのけた。そう謂えるだろう。
本来であれば曹操ほどの人物が、高々他国の太子ごときにまともに向き合う事は無い。
しかしながら、一連の動きを見るにつけ、けして無視出来ない存在である事は既に痛い程、判っていた。そしてそれは今度の荊州検分により、最早彼の中では揺るぎないものと成る。
それどころか、この自分がすっかりしてやられたのだから、その心は平静ではいられなかった。
ところが不思議なもので、それと同時に彼の心の中では、この若君をとても身近に感じる心が芽映えていたのである。
それは彼がこの若君の実力を認めた事実にもよるが、それ以上にその叡知に惚れ込んでいたからだ。
元々曹操は利発さを好む。それが判っているから、積極的に賢者を求める。
そして賢者といわれる人々もその知性を見抜き、高く評価し、無駄なく活用する事の出来る曹操という人物に惹かれ、その実力を如何無く発揮する。
この世の中、需要と供給で成り立っているとはいえ、必ずしも全てがうまく行くとは限らない。結果、一旦は結びつき相思相愛となっても、夢半端で散っていった者たちも少なくない。
そもそも曹操がこの若君に接近する事にしたのは、次世代を託す曹丕の器量に優るか否かを確かめるためだった。ところが接すれば接する程に、この若君の底は計り知れない。要は底が見えないのだ。
こんな事を言えば必ずや劉禅君には否定されるだろうが、曹操は件の若君の中に、若き日の自分を見ていた。まだ汚れ無き、清い心を持ち合わせていた頃の自分自身である。
今想えば、彼は若い頃から人間の裏の顔を見過ぎた。だからこそ、人を信用出来なくなり、自分も善悪は表裏一体と、当たり前の様に使いこなして来たのである。
そしていつの間にか手段を選ばぬ人間と成っていた。けれども仮にもし、自分が清き心を失う事無く歩んで来れば、果たしてどうなっていただろう。ここのところ、そう想わぬ日は無い。
曹操自身がそんな心持ちに成る事さえ珍しい事だが、劉禅君と接していて、彼は昔の自分自身に想いを馳せていた。
ところがその都度、彼は苦笑して首を左右に振る。そんな事をすれば、おそらく自分は今まで生き長らえていまい。そう想ったからだった。
今は三国が鼎立し、不意に背後を取られる事も無いが、彼の生きて来た時代はまさに乱世。誰もが天下を夢見て乱立していた。
そんな中で甘っちょろい理想論を掲げれば、早晩死ぬ事になる。人の裏を掻き、欺く事こそ、生き残る早道だったのだ。
一度その味を知った者は、二度と元の自分には戻る事は出来まい。そんな心持ちが彼をして、この若君に羨望の眼差しを向けている。
今までこんな想いに駆られた事など無い癖にである。一方では現実的にも、彼はちょっとした窮地に立たされているものの、この若君を敵視する事は出来なかった。
それはおそらく彼が今、もう一人の自分自身と対峙しているという自覚があったからだろう。
そして見事に裏を掻かれながらも、それは劉禅君が自分達の理想を体現したものであり、そこには露程の悪意も無く、懸命に皆と共に走り抜けた結果として、成し逐げた果実だと認めていたからだ。
そう想えたからこそ、曹操の答えは感じ入った本音となって表われたのである。
これには若君も驚く。閣下の長年の経験値に沿えば、観て来たものの重要性は悉く理解出来た筈だ。
それはおそらく生産力に止まらず、経済力やそれを裏打ちする軍事力にも及んだ筈である。鯔のつまりは、幾ら大国・魏であろうとも、けしてこの荊州城にひと刺しすら出来ない事を意味する。
それが判っていながら、あっさりと負けを認めるが如き振る舞いに及んだ閣下に、却って得も謂われぬ恐ろしさを感じたのである。
自然とそれは武者震いとなって表れた。でもそれでい良いのだ。相手は何といっても稀代の器である大王閣下なのである。
端からが厚い壁にぶち当たるくらいの覚悟をして臨まねばなるまい。そしてその覚悟は出来ていた。それがための武者震いである。
そして北斗ちゃんも肝の太さでは、けして負けてはいなかった。
「それはそれは…これ以上は無いお褒めの言葉です♪今の言葉を聞けば、皆も喜びましょう!ですが立ち話も何ですから、どうぞあちらに…廖化の事はもう御存知でしょう?彼が見晴しの好いところに御案内します♪きっと閣下もお気に召す事でしょうね!」
そう言って笑みを浮かべる。
「そらぁ、愉しみだな!時にそろそろ昼時であろう?道中、誠に美味そうな店が立ち並んでいたな♪それを眺めていたら、一気に腹が減ってしまった!何か馳走を出して貰えると嬉しいが…」
一見、ずうずうしい申し出にも聞こえるが、確かに時刻はお昼時である。健康診断のため、かなり前倒しで臨んだ曹操主従にとっては、食事もままならなかった筈だから、招待した以上は食事を提供するぐらいの事は当然であった。
それに彼らだって昨日、馳走になっているのだから、その恩は返さねばならない。ぶっちゃけ、それが不味かろうが美味かろうが、そんな事は関係無かった。
おもてなしの精神が、有るか無いかの差である。それにこれはある意味、若君の器量にも繋がる事だ。
若君は閣下の不躾な申し出に一瞬、呆気に取られた様に驚きを示すが、次の瞬間、クスクスと笑い出す。
「そりゃあ、そうですよね?朝一から健康診断ですもんね!さぞや煩わしいひと時だったとお察しします♪それで結果はどうでしたか?」
ふと気づいた様に、北斗ちゃんは訊ねる。それはそれで大事な事だ。今、閣下に倒れられたら困る。
曹操は、我ながら余計な事を言ってしまったと唇を噛む。けれども時既に遅しだ。その一瞬の隙をついて田穂が口を挟んだ。
「良好のようです♪老師も弎坐医官長も太鼓判を押しました!」
「あっそう!そりゃあ、何より♪」
若君も惚けた様にそう呟く。そして肝心の閣下を置き去りにしていた事にふと気づくと言った。
「あっ!そうそう♪昼げの事はご心配無く!この先の展望台にて既に御用意させて頂いております♪見晴らしの好いところで食事しながら話し合いましょう♡腕に寄りを掛けて用意させましたので、きっと閣下もお気に召す事、請け合いです♪」
昼時なのだ。そんな事は到に承知していると謂わんばかりの物言いに聞こえた曹操は恥じらう。何とも余計な一言だったと、苦虫を噛み潰した。
そんな閣下の心情を知ってか知らずかは判らぬが、若君はサラリと流す。そして廖化に再び指示した。
「じゃあ頼むよ、元倹♪さぁどうぞ、閣下!それに皆様も♪しばらくは眼下の素晴らしい景色をご堪能あれ!僕はここで孫権様を待ち、おって伺います♪」
北斗ちゃんは廖化に目配せする。あ・うんの呼吸で廖化も曹操一行を促す。
「それでは御案内させて頂きます!こちらにどうぞ♪」
「うむ!善きに計らえ♪」
曹操もそれ以外に言う言葉が見つからず、渋々ではあるが、廖化の案内に従い先に立つ。若君はそんな一行を見送ると、すぐに田穂に尋ねた。
「それで…首尾はどうだい?」
強引過ぎる程の話の切り換えに、田穂は一瞬、躊躇う。『いきなりかい!』と突っ込みを入れたくなるぐらいのもんだ。
田穂が着いて来れてないのが判ると、若君は困った様に苦笑う。
「おぃおぃ…勘弁してくれ!何のために閣下を先に行かせたと思ってるんだ!只耽君?徐先生に貰った字が泣くぜ♪」
若君が不意にその字を持ち出したもんだから、田穂は顔を真っ赤にして恥じらう。むしろ心が乱れてレロレロになってしまった。
仕方無く、ここは張嶷が助け船を出す。
「田穂殿!司馬兄弟の件ですよ♪」
そう言われて我に返った田穂は、そりゃあそうだとすぐに答えた。
「あっ!そうでした♪いつも伝書鳩で知らせる癖が付いていたもんでして!」
田穂は慌ててそう前置きすると語り出す。ちゃっかりしたもので、泣いた烏がもう笑っていた。
立ち直りが早いのも彼の良い所だ。まぁそうでなければ、瞬時の判断で動く戦場を渡り歩き、今まで生き長らえてはいないだろう。
彼は想い出した様にほくそ笑むと言った。
「若はやはり大したもんです♪あの満寵どんが感謝されておりましたぞ!お陰様であっしもそのお相伴に預かったような気分です♪」
まだ核心には触れてはいないものの、感触は悪く無さそうだ。北斗ちゃんはそう想った。でなければ満寵が礼を述べる筈が無い。
そして報告する田穂の表情にも明るさがある。この時点で若君は、目論見が当たった事を確信していた。
「それは何より♪それで満寵殿は何と?」
若君が相の手を挟むと、田穂の口は尚の事滑らかになった。
「そりゃあ、決まってます♪若の目論見通りですよ!二人を捕らえ、保護した事。子上殿が五石散の副作用で倒れているため、しばらく預かる事。誤解無きように言い含めたそうです♪仲達殿は終始、ご機嫌斜めで、苦虫を噛み潰していたそうですな!あっしも直に見てみたかったくらいのもんです♪」
然も残念と謂わんばかりの田穂の顔を見るにつけ、若君もようやく安堵を示した。ちゃんと言い付けを守り、満寵に全てを委ねたのは明白だ。
ここは確実に満寵に恩を売っておきたかった若君にとっては、最高の形と成った。そう断言しても過言は無かろう。
そしてその当人である満寵も先程、顔触れの中に混じっていたから、何かの際、きっと役に立つ事だろう。
今度は北斗ちゃんがほくそ笑む。それに田穂も何かと苦労が生きて来たらしい。
『若の目論見通りですよ!』
開口一番、彼はそう告げた。
『どうも壺を心得たらしいね…何ともはや♪』
そう言われて嬉しくない筈は無いが、若君は苦笑してサラリと流した。余りちやほやされるのは彼の本意では無いのだ。
漢がそうであったように、歴代の王朝は耳に心地好い言葉に騙され、不心得者たちを政治の中枢に近づけ過ぎた。
多少、お付き合いの場ではそういった事も必要だから、田穂の成長には目を瞑るが、殊更にここで己が喜んでしまっては、そういう雰囲気を助長させ兼ねない。
清廉である事…。
それを上に立つ者が忘れてしまったら、そこから一気に崩壊は始まる。北斗ちゃんは敢えて流す事でそれを示し、自らにも喚起したのだった。
そして田穂も根っからの堅物であり、チャライのはむしろ好かない。そんな己が無意識にもそんな事を口にした事にすら、彼は気づいていなかった。
只々若君を喜ばせたかっただけで、他意は無かったのだろう。どちらかと謂えば、彼にはそんな事よりも、司馬懿に一矢報いる事が出来なかった事の方が悔しかったのだ。
若君の方は当然、その事には気づいているが、敢えて差し出がましい事をせずに、指示に従った彼を評価していた。だからそこを褒めた。
「よくやった!偉いぞ♪今回の肝はまさにそこにこそ有りさ!よく辛抱してくれたね?先程はすまん!只耽の字に恥じぬ働きだったねぇ~♪」
ヨイショはスルーした若君も、きっちりと約束を守り、目的を果たしたところは見逃す事は無い。細やかな気配りは、その都度、的を外さず行わねば意味は無いのだ。
その積み重ねが、配下たちのやる気を引き出す事を彼は十分に心得ている。田穂は己の気持ちを汲み取ってくれた若君に、感謝していた。
『今回は穏便に済ませる…』
そう言われた時に、田穂は許より、廖化も涙を飲んだ。その気持ちを察してくれたのだと想ったのである。
だから田穂は嬉しかったのだ。けれどもふとその時、若君の言葉にいち早く気づき、異を唱えなかった張嶷を思い出す。
その反動からか、自然と田穂は張嶷に視線を合わせた。するとそれに気づいているかのように、張嶷はニッコリと笑うと目配せする。
けして迎合した訳では無い。それは田穂も判っているから、おそらくは張嶷なりの採算でそう結論付けたのだろう。
自らを野生児と公言して止まない彼は、きっと野生の勘と笑い飛ばすに違いない。けれども田穂には判っていた。
張嶷は精密機械の如く、その結論を導き同意した事は間違いない。やり方は違えども、あの時、既に二人の男だけがこうなる事を望んでいたのだ。
先になお、何が待ち受けているのかはまだ判らない。単に転ばぬ先の杖というだけかも知れない。
往々にして知者は保険を掛けたがる者らしい。あの費禕もそうだ。それが予測を外した時に被害を最小限度に抑える事に繋がるのである。
『頭の良い人の気持ちはあっしにはまだ判らねぇ…あっしには案ずるより産むが易しの方が、性に合う!若の言葉を借りれば、餅は餅屋に任せるのが良い♪おや?あっしも意外に小難しい言葉が想い浮かぶもんだ!これも徐先生の教えの賜物かねぇ~♪』
田穂はそう想い、笑いが込み上げる。いつの間にか、自分も成長していた事にいみじくも気づき、苦笑う。
『まだ諦めるのは早過ぎる!人は成長するもんさ♪』
若君の笑顔が頭に浮かぶ。
『えっ?知らなかったの!君はあの田単の子孫なんだ♪』
次に弎坐の困った顔が想い浮かんだ。
『主は見込みがあるぞぃ♪地道に頑張りなさい♪』
褒める徐先生と、兄貴といつも親ってくれる廖化の喜ぶ顔まで浮かんで来た。
浮かれている場合ではないと、田穂は己を戒める。そして顔を上げ、前を向くと笑顔で答えた。
「御意!このあっしは若の剣です♪剣は主人のこと…を守るものですから!」
そう告げた田穂の瞳に、もう迷いは無かった。
どうやら"言葉を守る者"と言いたかったらしい事は、若君にも判っている。その小気味の好さに感じ入る様に、北斗ちゃんはニンマリと笑みを浮かべた。
【次回】この景観に誓う




