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新しい観念

「鉄路は続くよどこまでも…」等と歌い踊った訳では無かろうが、どこまでも敷設された鉄路は延々と続くかと想われた。そして穀倉地帯も今や普通に車窓の風景として定着している。


当初は(うな)り声の輪唱に終始していた曹操主従も、もはや開いた口が塞がる事は無く、走り過ぎる車窓を唖然と見つめるのみだ。ここまで通り過ぎていった風景で、果していったいどんだけの人口を支え賄う事が出来るのだろう。


荊州は呉の窮状を察して、困った時はお互い様と食糧の供給を担ったそうだが、確かにこれだけの自給が見込めれば然も在らんといったところだ。現状に於いて言える事は、彼らの発展には一切の付け焼き刃感が無く、むしろ地道な積み重ねの上に築かれた密度の濃い計画性と実行力が窺える。


『時を無駄にしなかった…』


『見れば自ずと判る…』


何度も頭に想い浮かんでは消えて行く劉禅君のその言葉は、軽いジャブの連打となって、次第に大王の脳裏を覆い始めた。地平線の彼方まで、どこまでも彼らの豊穣は途切れる事が無かったからである。


当然の事ながら、魏領内で至極当たり前の様に見られる荒れ野など、どんなに見渡しても一切、見当たらないのだ。そればかりか、打ち捨てられた遺骸なども目に触れる事すら無い。


そこはどんなに目を凝らして見返してもケチの付け様の無い、のどかで静かな田園地帯なのであった。そしてそこには何の恐れも感じられず、むしろ穏やかな幸せすら感じさせるものがあったのである。


これぞまさに平和の象徴というべきものであった。けれども未だ殺伐とした世界にその首までしっかりと浸っている者たちにとっては、それが彼らの日常であり常識である。


勿論、彼らだってそのままで良いなんて、けして想ってはいない。けれども改革を標榜する者にとっては、その現実が邪慮をする。


謂わゆる固定観念というものだ。彼らは無意識の中でそれに縛られる。


斬新(ドラスティック)な発想というものは、けして古い観念からは生まれる事は無い。血で血を洗う凄惨な戦場を見過ぎた者が、いざ手に持つ刃を手放した時に、いったい何が出来るのかという疑問に至るのは、おそらく至極当然の事で在ろう。


何故なら彼らにとっては強さこそが正義だという信念の下にこれまで切磋琢磨し、敢えて血の滲むような道を歩んで来たからだ。


それが正しい唯一の解決への道だと信じてこれまで刃をふるって来た者が、簡単にその経緯を捨て去る事はなかなか出来まい。かく謂う曹操自身もまた、その道を信じて突き進んで来た者の一人である。


そこには勝利するための戦略はあっても、相手と話し合い折り合いをつけるというような生温(なまぬる)い考えは皆無だった。


勿論、戦略上の都合で、一旦相手と和を結ぶ事はあっても、それはあくまで一時的な策であって、最終的に勝利するための謀略でしかない。


そこに信頼は無く、仁義すら無かった。


ところが(くだん)の若君は、そういった古い固定観念を一蹴し、天秤に懸ける事すらなく、まるで振り切った振り子のように勝手に戦う選択肢を捨て去り、話し合いでの解決を模索している。


否…模索しているというよりは、その神輿(みこし)に乗れと言わんばかりの勢いである。むしろこちらが不可避な事故にいきなり遭遇し、巻き込まれたぐらいのもんだ。


その時、曹操は不意に(おのれ)の言葉を想い出す。


『反論は代案を持ってすべし!』


彼は無意識に苦虫を噛み潰していた。


その時は体よく牽制したつもりが、今改めて考えてみれば既にその時、彼自身が劉禅君の術中に嵌まり、その手の平の上で踊らされていたのではないかと気づいたのである。


『見れば判ります♪』


曹操は劉禅君のその言葉を再び反芻(はんすう)していた。そして溜め息を漏らす。目の前に広がる大地がその全てを物語っている気がしたのだ。


『僕らは時を無駄にしなかった』


力強く語る若君の言葉が、今さらながらに理解出来る気がしていた。漢江を制し、有頂天になっていた彼らにとっては、正に青天の霹靂である。


そんな彼らを尻目に、(くだん)の若君はしっかりとここ荊州にその根を下ろして、着々と地盤を築き、確固足るものにしていた。その結果として、皆が彼に従い、目の前に広がる大地を潤わせて、豊かな実りを享受する事に成功している。


それは平和的な秩序の構築であった。そしてそれこそが劉禅君の答えなのだろう。


『見れば判ります♪』


そう答えた劉禅君の言葉が、曹操には今さらながらに判った気がしたのである。


『戦いだけが果たして統一への道でしょうか?』


彼には(くだん)の若君がそう問い掛けている様に感じられて、苦し紛れに嗚咽を漏らした。劉禅君がいみじくも告げた言葉が、彼の胸に深く突き刺さる。


『僕は戦う気なんてそもそも無いんだ!』


『身内同士で戦いに明け暮れていたから、今や漢民族は民族として成り立たなくなって来ています!民のいない国の王様に成っても、いったいそれが何に成りましょうか?』


確かに魏は現在、広大な地を支配しながらも、全ての地域に民を分配出来ていない。少数の漢民族保護の観点から、中央に民を集め、北方の地帯は友好的な異民族を移住させる事で何とか体裁を取り繕っている始末である。


それは曹操にとっては天下統一を成さんがためのやむを得ぬ舵取りであった。南下して呉や蜀を討伐するためには、必要不可欠な舵切りだったのである。


古い固定観念に縛られている者の、当然の帰結だった。そう謂えるだろう。


ところが魏や呉が手をこまねいている間にも、劉禅君は脇目も振らずに大地を整備し、民を巻き込んで豊かさを享受してしまった。


まさに戦いを否定し、それ以外の方法を模索する事が出来る者の発想なのである。


戦いとは人を殺す事である。そこには生産性は無い。けれども戦う替わりとして、その力を生産力足る農作や商いに向ければ、豊かさを生み出す事は出来るのだ。


それを率先して示す事で、手本と成る。それはおそらく三國最弱と言われた蜀だからこそ出来た発想であり、実践だろう。


戦いは所詮、数の論理である。魏に勝る国はないのだから、最終的には魏の天下統一を阻む者は居るまい。


まともにかち合えば負ける。ならば戦わねば良い。その替わりとして別の道を行く。


その結果として、劉禅君の出した結論は、正しい国政の在り方を示し、国を豊かにするための施策を実践する事で、他国の手本に成る道を選んだのだ。回りくどいやり方だが、それこそ魏蜀同盟を最大限に活かした策である。


今まで同盟を最大限に活かしていたのはこちらだと思い込んでいた曹操にとっては、してやられたという想いが拭えなかった事だろう。


劉禅君こそが、魏蜀同盟を最大限に享受したと謂えるのだ。


『僕らは時間を無駄にしなかった!』


その言葉の重みが、今ここでようやく明らかとなり、曹操は言葉も無かった。あの小僧が仕掛けた罠にまんまと飛び込んでしまった己の浅はかさに苦笑いするほか無かったのである。


『じゃが…まだ負けた訳では無い。儂は大国・魏の大王ぞ♪話し合いの場に応ずるのは大国の王としては当然の事!度量を見せてやらねば成るまい♪』


生産力では地に堕ちたとしても、軍事力ではまだ負けた訳では無いのだ。あの城壁を越えさえすれば、この実り多き大地も、結局は我が軍勢を潤す糧に成る。


曹操はまだ天下統一を諦めていた訳では無かった。古い固定観念が未だ彼を縛っていたのである。


ところが進み行く鉄路の先で観た景色は、彼のその強靭な精神を一気に打ち砕く。そう…若君が待つ都市の中心地に近づくに連れ、その雄大な景色は大王・曹操の眼に飛び込んで来たのである。


『何じゃこれは…』


曹操は生唾を飲み込んだ。


そこには今まで観た事も無い様な大都市が(そび)え立つ。それはまさにかつての洛陽や長安の都を凌駕する立派なものであった。




やがて鉄路はその大都市内に滑り込んで行く。気を効かせたものか、速度が制限されているからかは判らぬが、人力車はやや速度を落とし、緩やかに都市の中を流し始めた。


鉄路は大通りに沿って進む。碁盤の目に張り巡らされた街道には多くの馬車が行き交い、人の波でごったがえす。


お昼時なのだろう。街角の喧騒そのものが人々の息吹を感じさせる。その表情は皆明るく、そこには命の営みがあった。


江陵砦の城門を潜った先でも感じた事だが、通り沿いには様々な店が軒を連ねる。そしてその繁盛足るやその比で無く、さすがは都市の中心地である事を如実に感じさせた。


『おやっ…』


その時、曹操は不思議な光景を目にした。


それぞれの店先には長蛇の列が出来ている。否…それは然して珍しい事では無い。そうでは無く、彼らは誰の強制も受けずに、のんびりと順番を待っているのだ。


順番を守らず割り込む者やそれを阻止する為の兵すらそこには居なかった。そこには待てば必ず食事にありつけ、目的の商品が手に入るという余裕が感じられる。


切羽詰まったり、抜け駆けしようなどと企む者は誰ひとりとして居なかった。皆、信じているのだ。それは裏を返せばそれだけの在庫がある事を示している。


だからだろうか。商人たちは互いに客寄せの掛け声に力がこもる。まるで客の取り合いをしているようだ。


その声には活気があり、その顔は自信に満ち溢れている。それだけ売る物にも自信があるのだろう。


一方の客たちはと謂えば、待つ間にもその商人たちに声を掛けたり、客同士で談笑している者すら居る。そして良く見ると、それは何も民同士という訳でも無かった。


何と立派な物腰の武将であったり、官僚とおぼしき身形(みなり)の者たちまで含まれていたのである。


『何という事だ…』


曹操は驚きを通り越して呆れてすらいた。


魏国では物資不足の中で、民は相変わらず疲弊しており、長蛇の列は兵を動員して見張らせないと暴動が起きかねない。


そんな切羽詰まった状況下では、抜け駆けや横入りが横行しても何の不思議も無いのだ。そればかりか、少し金を持つ者は総じて役人や商人に袖の下を渡して、ずうずうしくも優遇させる事すらある。


いつもそのツケは否応なく弱い立場の民らに及んだ。弱肉強食が当たり前の戦国の世だから仕方無い。今までそう想い込んでいたものが、この光景を目の当たりにして、彼の中で一気呵成に崩壊を始めた。


そもそもこの世は縦社会なのだから、文武両官ともに民と愉しげに談笑する事など無い。喩え話す機会が在ろうとも、常に互いの身分を(わきま)え、意識しているのが普通だ。


ところが彼が今、眺める先にはそんな垣根を感じさせない団欒(だんらん)があったのである。そりゃあ、普通じゃないと感じても不思議は無い。


それはまるで人の尊厳を守り、平等であるかの様な振る舞いに、彼には感じられたのだ。戦いを潔しとせず、平和で豊かな大地を目指し、これを見せつける。


そればかりか、ここでは身分制度も既に崩壊し、互いが互いを認め合い、尊敬の念すら抱いているのである。


ガチガチの王政を守り、次の代には皇帝にすら成れると、従来の継承路戦を念頭に進めて来た曹族にとっては、まさに青天の霹靂であった事だろう。だからか、曹操の眼にはこれが極めて恐ろしい光景に写ったのかも知れない。


血で血を洗う戦場ならまだしも、これだけのどかで平和な風景の中に、そんな恐ろしさを見出だすというのも、果たして幸せなのだろうか。否…気の毒でしか無い。


けれども彼が乱世の奸雄と呼ばれた事を忘れてはいけない。彼自身はどうやら自分の代では皇帝に成る事を固辞したらしいが、それはあくまで曹操の分別によるものであって、けして本心では無い。


彼が魏王になる時でさえ、漢の(ろく)()んでいた者の中には、公然とは謂えずとも、非難する者たちは存在していた。荀彧(じゅんいく)などは、むしろあからさまに(ののし)り過ぎて粛清の浮き目にあったが、賢い曹操にはそれが氷山の一角に過ぎない事は既に判っていたのだろう。


突き詰めれば、自分自身だって長らく漢の禄を食んで来たのだ。儒教思想の未だ根強かったこの時代にあって、下克上に相当する事は即ち、不埒(ふらち)な行為と(そし)りを受けても仕方無かったのだろう。


但し、分別をしたからといって、彼が皇位継承を諦めた訳では無い。次世代である曹丕の代に禅譲を行えれば良かったのだ。


しかしながら、劉禅君はそれさえも許さない新しい世の中の在り方を模索している。目の前に訴える秩序がそれを代弁していた。


曹操は約束を守り、劉禅君の構築した世界を眺めている。少し見方を変えれば、まさにそこには理想の空間が広がっているのだ。


天下を統一し、中華をひとつにまとめあげた暁には、これぞまさに構築するべき理想の世界であり、立派に手本と成るものである。


(ただ)それは劉禅君によるものでは無くて、あくまでも曹族によるものでなければならない。それが為に、これまで彼は奮闘して来たのだ。


それがこんな形で別の人間により、こんなにも早く実現されるとは思ってもみなかったので、それが彼の(あせ)る気持ちを助長させている。


荊州城はまさに難攻不落…。常識を(くつがえ)し、城内で幾らでも兵糧も水も(まかな)える。


そして兵力の格差を縮める移民政策、深い濠と(そび)え立つ高い壁、さらには漢江式典で見せつけられた兵器の数々…。


もっと言えば、これだけの商売繁盛の裏では、その経済効果すら馬鹿に出来まい。一国を治める者にとっては、それぐらいは手に取るように判る事だった。彼には治世の能臣という呼称もあったのだから…。


そんな時に曹操の目の前には、彼の予測をまるでずばりと裏付ける様な光景が見えて来た。何とそこには内陸にも拘らず、あの大型船が何隻も連なって停泊していたのである。


度肝を抜かれた大王閣下は、咄嗟に田穂を振り返る。すると田穂は涼しい顔で答えた。


「閣下!あれは港です♪ここ荊州は湾岸都市でもあるのですよ!全く…若君の考えにはとても付いて行けません♪ねっ!凄いでしょう?」


衛尉は然も誇らしげにそう告げた。


さすがの曹操も、これには返す言葉が無かった。もしやとは想いつつも、まさかそんな事まで既に実行しているとは想わない。否…只々認めたくなかったというのが、正直な気持ちなのだろう。


何故なら、移民を受け入れるにも、様々な珍しい商品を取り揃えるのにも、当然の事ながら交易は必要不可決だと感じていたからだ。


劉禅君には魏が使っているような陸路での交易ルートは無いだろうから、もし仮に交易を行うとすれば、西の山脈を越える道筋を造るか、南から船で出て海洋交易を行うしか道は無い。


そんな大それた事を出来る訳が無いと高を(くく)っていた矢先の事だ。驚くのも無理は無かった。そしてそれは荊州の経済力を裏打ちするには十分過ぎる程の光景だったと謂えるだろう。


『負けた…』


その時、曹操はそう想った。


『見れば判ります♪』


そう答えた劉禅君の言葉が、再び彼の脳裏を(よぎ)る。確かに(くだん)の若君は、時を無駄にするどころか極めて有効に使って、自分の信じた道を只ひたすらに突き進んで来たのだろう。


人力車が港町の波止場に着く頃には、閣下の懸念は益々広がっていたのである。

【次回】両雄相まみえる

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