挿話 記憶の欠片 宵闇
はあ、と女は身体中の息を吐いた。
常日頃美しくと心がけている姿勢を崩し、背を丸めて行儀悪く寝台に片足を上げ、膝を抱える。
なぜ、うまくいかないのだろう。
正しいことを、しているはずなのに。
こう言う時は、どうすればいいのだろうか。どうすれば、いいのだった?
「私は正しい。奥方にふさわしいのは、クラーク様の素晴らしさを知る女性でなければ。そして、それを支える強さを持つ人物でなければ。
私は、正しい」
頭を伏せ、自分の体が囲った小さな空間に、何度も呟く。かつて、幼い頃に見た母がそうしていたように。
正しい者が、皆に支持されるとは限らない。
それでも、正しいと信じることを貫かなければならない。
母は、貫いた。
主と決めたマーズを支え、外に向かって立たなければならないマーズのために領主屋敷の内々を取り仕切り。自らの屋敷や夫や娘は、すべて後回しにして。夫や親族からの責めも、ある日突然に自分を見なくなった母を見つめる、娘の視線も、すべてを跳ね除けて。
そこまでの献身をマーズが求めたはずはない。母はマーズ本人の言葉すら、こと自らの忠義のこととなれば跳ね除けていたと記憶している。
皮肉なことにその結果、今、母はマーズの信用を失いかけている。
——けれどそれは、母のやり方がまずかったのだ。
新しい奥方に関して、母は正しい。受け入れることは、正しくない。母と親子らしい会話はなくなって久しいが、クラークの結婚の報を受けた直後に二人、確認しあったことだ。
けれど母は、忘れていたのだろう。
人は、間違え、思い込み、忠言に耳を傾けない。どんなに名君と言われている人物でも、常に正しく在るわけではない。
そのことを、忘れていたのだろう。
そして女も。
——では、どうすればいいのか。
「一番大事なことを、思い出して」
クラーク様に、よき奥方を。
「ミリアンネ様は、ダメ。マーズ様には受け入れられている。けれど、何もかも、足りない」
ミリアンネに婚姻をやめさせて、よりよい相手を、と思っていたが。
意外や、大人しそうに見えて、したたかなようだ。輿入れからひと月も夫に捨て置かれているのに、ああも厚顔に姑に擦り寄られてしまえば、打つ手がない。
そのしぶとさも、良いところと言えなくはないが。やはり王都の貴族の娘は、権謀術数も教え込まれているのだと、腹立ちのほうが勝ってくる。
——ああ、だが、待てよ。
そう、女はふと自らが作る小さな闇に瞬いた。
婚姻相手を挿げ替えることが、できないのならば。
ならば相手を、作り変えることができれば。まだしも、よいのではないだろうか。
「幸いにも、根性はありそうだもの。足りないものを、注ぎ込んでやればいいのかも」
光明が見えた。
顔を上げて、細く、細く、息を吸う。
クラークの結婚相手の話を聞いてから、胸いっぱいに息を吸えなくなった。常に見えない縄で、何重にも縛り上げられているかのような、圧迫と、苦痛。人と話し、馬に乗るはおろか、姿勢正しく立つだけで、息苦しく、脂汗が滲むのだ。
楽になりたい。
間違いが正されれば、きっと、楽になる。
けれど何をしても、あの女が変わらなかったら。
どうやって楽になればいいのか。
きっともう、わからないだろう。




