第八話 教育の番人と愛国の罠
「失礼します」
担任の山崎先生に連れられて入った校長室は、妙に重苦しい静寂に包まれていた。いつもは上機嫌で盆栽の手入れをしている校長先生が、デスクの隅で小さくなって冷や汗を流している。
代わりに長ソファに腰掛けていたのは、仕立てのいい高級なスーツを身にまとった二人組の男だった。
「やあ、君たちが佐藤くんと、御剣さんだね。急に呼び出してすまない。私は文部科学省の初等中等教育局で調査官をしている、成瀬という者だ。こちらは政府の調査官だよ」
男――成瀬は、ヤクザのような威圧感を出すどころか、極めて紳士的で、まるで出来の悪い子供を哀れむような優しい微笑みを浮かべていた。
だが、その奥にある目は一切笑っていない。
「君たちの学校のネットワークから、最近ネットで騒がしい例の掲示板へ、大量のアクセスログが出ていることが分かってね。……まぁ、高校生が退屈な日常の腹いせに、ネットに不確実な情報を流して注目を集めたくなる気持ちは分からなくもない。だがね、国家の根幹に関わる嘘を並べて社会を不安に陥れるのは、感心しないな」
成瀬は手元のお茶に口をつけ、諭すように言葉を続けた。
「君たちの教科書にも書いてあるだろう? この国『オキュパイドジャパン』は、国際社会に承認され、法の下に守られた平和な国だと。なぜ学校で習った『正しい常識』を素直に受け入れられないのかな?」
それは、教育の番人である文科省の人間が使う、最も洗脳度の高い「大人の論理」だった。
隣に立つ御剣の身体が、かすかに緊張で強張るのが分かった。
だが、前世で就職氷河期を生き抜き、長年世界情勢や法律の歪みを貪り読んできた俺の脳は、この男の言葉の「致命的な穴」を、即座に捉えていた。
「『正しい常識』、ですか」
俺は一歩前に出て、成瀬の冷酷な視線を正面から受け止めた。
「成瀬さん。俺たちが毎日使っている教科書も、この学校のシステムも、すべて昭和二十二年に制定された『教育基本法』と『学校教育法』に基づいていますよね」
「……そうだ。それが何かね?」
「じゃあ、その法律の大元を作らせたのは誰ですか? あんたたち文科省の前身じゃない。二度とこの国の人間が立ち上がれないようにと、戦後に乗り込んできたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の米国教育使節団だ」
成瀬の微笑みが、ピクリと凍りついた。
「彼らが最初に行ったのは、教科書の墨塗りと、我が国の伝統的な歴史・地理教育の完全な停止だ。目的は一つ。子供たちから『自分たちの国への誇り』を奪い、占領軍に都合のいい『従順な羊』を大量生産すること。その洗脳システムの骨組みを七十年以上一途に守り、今も生徒に配り続けているのが、あんたたち文科省だろ」
「佐藤くん、言葉が過ぎるぞ!」
後ろで山崎先生が青ざめて声をあげたが、俺は止まらなかった。
「この国の人間が、誰も『オキュパイドジャパン(占領下の日本)』という不気味な国名に疑問を持たない理由が、ようやく分かりましたよ。義務教育という名の苗床で、幼い頃から『疑問を持たない脳』に調教されているからだ。学校教育法そのものが、この国を占領下に固定し続けるための最大のツール(バグ)なんだ」
成瀬は凍りついた顔のまま、フッと鼻を鳴らした。
「……君たちの言う戦後教育への批判は古いよ、佐藤くん。教育基本法は二〇〇六年に、第一次安倍内閣の元で半世紀ぶりに全面改正されている。独自のアイデンティティや、我が国と郷土を愛する態度を育む義務がしっかりと盛り込まれた。この国はすでに、戦後の自虐教育の呪縛から脱却しているんだよ」
成瀬が「教育のアップデート」という二の矢を放ってきた。
だが、その言葉を待っていたと言わんばかりに、今度は俺の隣から、氷のように冷徹な声が響いた。
「脱却した? 逆よ、成瀬さん」
御剣怜が、いつもの学年トップの優等生としての、隙のない知性で官僚を睨みつけた。
「『法律の文面だけを綺麗に変えて、中身の占領体制を完全に固定化した』のが、その二〇〇六年の改正の本質だわ」
「何だと……?」
「教育基本法を変えて、学校で『国を愛せ』と子供たちに教えるようになった。だけど、その子供たちが大人になって見上げる空は外国軍の管轄のままで、国内の不平等な地位協定や、皇室を細らせる仕組みは一歩も変わっていない。それがどういう意味か、数字を読める文科省の頭脳なら分かるでしょう?」
御剣の冷たい追撃が、成瀬のプライドを容赦なく引き裂いていく。
「『国を愛せ』と教えられながら、現実の主権は他国に握られている。この歪んだ教育を受けた子供たちの脳内には、『主権がない占領下の状態こそが、自分の愛する正しい国の姿だ』という、最も根深いマインドコントロールが完成するのよ。現状を内側から『これが正しい愛国だ』と国民に自己肯定させ、洗脳をより強固なフェーズにアップデートしたのが、あんたたちのやった仕事だわ」
校長室の中が、完全に凍りついた。
文科省の官僚を相手に、「あんたたちのやってる教育こそが、この国で最大の洗脳システムだ」と法律の出自を武器に真っ向から論破してみせたのだ。
成瀬の顔から、物腰柔らかな大人の仮面が完全に剥ぎ取られた。
彼は手に持っていた湯呑みをバタンとテーブルに叩きつけ、冷酷な、獲物を屠るような目で俺たちを睨みつけた。
「……そこまで知っていて、ただの掲示板の悪戯で終わらせるつもりかね?」
大人の本当の「牙」が剥き出しになった。
しかし、俺と御剣は、その底冷えするような脅迫に対して、ただ静かに、不敵な笑みを返した。
(第八話 終)




