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第1話 娘の涙と理不尽な破談



私の名前は野上佐和子(のがみさわこ)。

 今年で五十二歳になるシングルマザーだ。


リビングのソファに深く腰掛け、淹れたてのハーブティーを一口飲む。

 静かな夜だ。

 かつては仕事と家事に追われ、こんな風にゆったりとお茶を楽しむ時間なんて想像もできなかった。


女手一つでの子育ては、決して楽なものではなかったけれど、それももう過去の話。

 一人娘の美咲(みさき)は無事に大学を卒業し、希望していた企業に就職してくれた。


やっと肩の荷が下りた。

 これからは自分の老後と向き合いながら、少しは趣味の時間を持ってもいいかもしれない。


そんな穏やかな未来を思い描いていた私の心は、しかし今、期待と不安で少しばかり波立っている。


今日は、美咲にとって人生の分かれ道とも言える重要な日だ。


大学時代から付き合っている彼氏、広瀬翔太(ひろせしょうた)さんのご実家へ、結婚の挨拶に行っているのだ。


「うまくいくといいんだけど……」


翔太さんは、何度かうちにも遊びに来てくれたことがある。

 誠実で優しそうな好青年だ。彼なら美咲を大切にしてくれるだろうと、私は心から信頼していた。

 二人の仲に問題はない。


ただ、少し気になるのは、彼のご実家のことだ。

「そこそこの旧家」だと聞いている。

 古いしきたりや、格式を重んじるような家だったら、片親育ちの美咲が何か言われないだろうか。


時計の針が午後九時を回った頃、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま……」


その声を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。

 弾むような声ではない。消え入りそうな、震えた声。


慌てて玄関へ向かうと、そこには靴も脱がずに立ち尽くす美咲の姿があった。

 丁寧にセットしていった髪は乱れ、目元は真っ赤に腫れ上がり、化粧が涙で崩れている。


「美咲!? どうしたの、その顔!」


私が駆け寄ると、美咲は堰を切ったように泣き崩れ、私にしがみついてきた。


「ううっ……お母さん……っ、ごめんね、ごめんなさい……っ」


「謝る必要なんてないのよ。何があったの? 翔太さんと喧嘩でもした?」


美咲は私の胸で首を横に振る。


しゃくりあげる背中をさすりながら、私は彼女をリビングへと連れて行き、ソファに座らせた。

 温かいお茶を飲ませ、少し落ち着くのを待ってから、私はもう一度尋ねた。


「それで、向こうのご両親に、何か言われたのね?」


美咲はタオルで顔を覆ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

 その内容は、親である私にとって、耳を疑うような酷いものだった。


「……結婚は、認めないって。絶対に許さないって」


「どうして? まだ会ったばかりでしょう?」


「片親だから、だって」


美咲の声が震える。


「母子家庭で育った娘なんて、父親の背中を見ていないからまともな躾(しつけ)がされていないはずだ、って。そんな娘をうちの嫁にするわけにはいかないって……」


頭の中で何かが切れる音がした。


躾がなっていない?

 私が、美咲をいい加減に育てたとでも言うのか。


仕事でどんなに疲れていても、寂しい思いをさせないように、人としての礼儀や思いやりは厳しく、そして愛情を持って教えてきたつもりだ。

 美咲は誰に出しても恥ずかしくない、自慢の娘だ。


「それだけじゃないの……」


美咲は悔しそうに唇を噛み締める。


「うちの財産目当てなんじゃないかって。貧乏な母子家庭が、名家に取り入ろうとしてる卑しい根性が透けて見えるって……」


「なっ……!」


卑しい。

 その言葉に、怒りを通り越して吐き気すら覚えた。


美咲がどれだけ翔太さんを純粋に想っているか。それを、金目当てだなんて。

 それに、私だって経済的に豊かとは言えないまでも、美咲にひもじい思いをさせたことなど一度もない。人並みの生活は送らせてきた。


「私が言い返そうとしたら、『親の教育が悪いと、口答えまでするようになる』って……。私のことだけならまだ我慢できたけど、お母さんのことまで悪く言われて……私、我慢できなくて」


美咲は再び涙を溢れさせた。


「『じゃあ、この話はなくてもいいです! 母さんを馬鹿にするような人たちの家になんて、こっちから願い下げです!』って、怒鳴って帰ってきちゃった……」


「美咲……」


私は強く娘を抱きしめた。


なんて優しい子なんだろう。

 自分の幸せがかかった場面で、私のために怒ってくれたのだ。


悔しさと申し訳なさで、私の目にも涙が滲む。


「ごめんね、美咲。母さんのせいで……」


「違うよ! 母さんは悪くない! 悪いのはあっちだよ!」


美咲の言う通りだ。

 悪いのは、人を属性だけで判断し、見下すようなその両親だ。


今時、片親家庭なんて珍しくもない。

 それなのに、未だにそんな前時代的な偏見を振りかざして、若い二人の未来を潰そうとするなんて。


怒りが腹の底から湧き上がってくる。


許せない。

 私の大切な娘を泣かせたこと、絶対に許さない。


ふと、あることが気になった。


翔太さんのご実家が「旧家」だとは聞いていたが、具体的に何という家名なのか、詳しく聞いていなかった気がする。

 ただの偏屈な金持ちなのか、それとも地元で名の知れた家なのか。


「ねえ、美咲。そんな酷いことを言ったのは、なんていう家なの?」


私の問いかけに、美咲は涙を拭いながら小さく答えた。


「……二階堂(にかいどう)。二階堂家だよ」


「二階堂……?」


その名前を聞いた瞬間、私の記憶の奥底にある澱(おり)のようなものが、ふわりと舞い上がった気がした。


二階堂。聞き覚えがある。

 どこで聞いたのだったか。いや、ただの偶然かもしれない。よくある苗字……ではないけれど、珍しすぎるというほどでもない。


けれど、なぜだろう。

 胸のざわつきが収まらない。


その名前には、何か私にとって忌まわしい記憶が結びついているような、そんな嫌な予感がした。

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