熱情とパラドクス
「ただいま」
「響ちゃんおかえりー」
聞き慣れた母の声がリビングの方から聞こえてくる。スパイシーな香りが鼻を抜けるから今日はカレーだろう。さっき脳裏に浮かんだのもあって随分とタイムリーな献立だ。
「今日はカレーか。嬉しい」
「そう!カレーだよ!喜んでもらえて良かった」
カレーはもう既に、ダイニングテーブルに用意されていた。カレーの日にはあまりおかずを食べないので、置かれている食器はスプーンだけである。
いつもは先に風呂に入るのだが、今日は自室に学校の荷物を置いてからそのまま夕食を済ますことにした。カレーが冷めてしまうから。
「うん、カレー美味しい」
「本当?作った甲斐があるわー!」
「いつもより水分少なめでいいと思う」
「新じゃが使ったからね-」
僕の家のカレーにはいつもチーズが入っている。このチーズがスパイシーな味と香りと調和して、カレー全体のクオリティを底上げしている。画竜点睛という言葉にここまでマッチする例は無い。
「それにしても響ちゃん、小さい頃からカレーの日は特に喜んでくれるね」
「言うほど喜んでた?」
「あぁーでも小学生くらいの頃はもっと喜んでたかもしれないわね」
「小学生の頃ねぇ…」
「あっ!そういえば頼んでた牛乳と卵買ってきてくれた?」
すっかり忘れていた。なんであの水落とかいうおっさんにニンジン買い与えた時に、頼まれてたものもついでに買わなかったのだろう。いや、でも冷静に考えたら不審者と一緒におつかいをこなす余裕は無いか。
「忘れてた。買ってくる」
「えぇーもう夜遅いから明日でもいいのにー」
「まぁ、まだ風呂入ってないし」
「危ないわよ、最近何かこの辺変な人多いって聞くから」
「すぐそこのコンビニで買うから大丈夫」
カレーを米粒一つ残さず食べ切って、椅子からゆっくりと立ち上がる。それから食器を水につけてから僕は外に出かける準備をした。とはいえ、会計はスマホのキャッシュレス決済アプリで済ませるつもりだし、部屋から持っていくものはエコバッグだけだ。
「行ってきまーす」
「本当、気をつけてよー?」
家を出ると、少々肌寒さを感じた。もう5月に入って季節はまもなく暦上は夏に移り変わろうとしているのに、何とものんきな気象だなあと思う。
もう、家に戻るのも面倒なのでそのままコンビニに向かうことにした。
まだ時刻は8時ごろなので、軒並みはまだ明かりが灯っていて時々話し声や笑い声が聞こえる。もう何度も通った道なのに色んな顔を見せてくれて何だか飽きない。
コンビニは、家の目の前の道路を右側にずっと歩いて行けばたどり着く。しかし、その道路はどこも住宅街に続くという訳ではなく、一部雑木林や竹林につながる横道もある。半田舎と言うのが一番しっくりくるのがこの町だ。
突然、奇妙なものが目に入った。
あまりに細かい現象なのだが、それでも決定的な異変だ。
雑木林の方角の空に薄く発光した青色の粒子がまばらに浮かんでいるのだ。
いつもの僕であれば、この程度確実に無視していただろう。だが、昼間の青い狼や「音楽」の件があった手前、とても放ってスルーすることができない。それに――。
雑木林につながる横道はコンビニを通り過ぎて5分位歩いた場所にある。
僕は、コンビニを少し駆け足で通り過ぎて、迷わず道なりに進む。本当に少しずつなのだが、あの空の上の粒子が濃くなっていっているような気がする。
到着した横道は入り口だけは住宅街の景観を損なわないようにある程度は整えてあるが、その先はかなり草が生い茂っていて杜撰な状況だ。この雑木林の先には僕が小学生くらいの頃よく遊んでいた場所がある。しかし、もう過去の話だ。正直、「遊んだ」という思い出だけが僕の心の中には残っていて、詳細なことは何一つ覚えていない。どうやら自分の記憶もこの場所も途方もない時間を経て、姿形を変えてしまったようだ。
――何をしているのだろう。
――自分でも理解できないよ。
誰かから頼まれたわけでは無い。それでも、僕の足は進むことを止めない。こんな感覚に陥ったのは一体いつぶりだろうか、妙に懐かしいような気がするが、完全に初めてのような気もする。
人一人が通るのに精一杯な細さの獣道のような道を歩く。両手側には青々と木々が生い茂っていて、時々顔に当たってくる枝を手で押しのける。鼻を抜ける土と草の匂いは先に進むほど強くなっていき、辺りを飛び回る羽虫の数も増えていった。
もう、僕の行き先を示すものは空を仄かに照らすシアン色の粒子だけになってしまった。
それでも、ただひたすらに先に進む。
――本当にどうしてしまったのだろう。
――分からないよ。
もうすぐ、雑木林を抜ける。かき分けた枝木のその先には――。
ぽっかりと広い場所に出た。
目の前には丁寧に整備されたかのような円形の草原と、一軒の平屋建ての廃屋、そして――。
「……どうして、お前がここにいるんだよ」
「本当、懐かしいよね。覚えてる?私たちここで初めて会ったの」
「…ここ?」
僕の前に立つセミロングの髪型の女子、糸桜かほ。
ここで出会った?この場所が?
そもそも僕は、こいつといつ、どこで、なにがきっかけで出会ったのか全く覚えていない。気がついたらそばにいて、今に至る。鮮明とした記憶が残っているのは中学生くらいの頃からだ。
「そうだよね、やっぱり覚えてないよねー」
かほは、いつものように天真爛漫に笑顔を浮かべる。でも、いつもよりもひどく寂しく見える。
制服で会うことが多いから、ガーリーなサロペットスカートを着た彼女はとても新鮮だ。
しかし、何かが心に引っかかる。このシチュエーション、かほの姿、辺りの匂い、触覚、それどころか、五感全てが何かを僕に訴えかけているようであった。
「私もね、しっかりとは覚えてないの。響揮との小学生の時の思い出」
「小学生って…僕は…」
――覚えてない。大事な記憶何もかも。
「でもね、これは覚えてるんだ。あなたと出会った日のこと」
「…」
かほの顔からは寂しさのようなものは消え、代わりに現れたのは満面の笑みだった。なのに、両手の拳はぎゅっと固く握られている。
彼女は僕を一直線にじっと見つめ、口を開く。
「響揮、あなたが教えてくれたんだよね。今は…覚えてないけど、私にとってとても大切なもの」
「大切なもの?」
「それを考えると、胸が熱くなるの…うん…居ても立ってもいられなくなるほどに」
「…?」
ふと、脳裏に浮かんだのは、昼間の水落の姿であった。
あの時、確かに自分の心は何かの魔法にでもかけられたかのように、強く、強く締め付けられる気持ちになった。それも、自分が必死に押さえつけていた「感情」があふれ出そうなほどに。
「そういえば、響揮が感情を押し殺したいとか言い出したのは、中学生くらいの頃だよね。はっきりした記憶が残っているのもその辺りからだし」
「それって…」
「私たち…忘れた…ううん、忘れさせられたんだと思う。命より大事なものと思い出を」
――忘れさせられた?
「何故なのかは分からない…だけど、私はこの世界にとても違和感があるの。中学生からの5年間ずっと、そう思ってた。でもね、今…確信した」
その時であった。確かに見える。
かほの身体から尋常ではないほどのあの青色の粒子が次々と現れ出でては上空に舞う。もう空一面にシアン色の光が妖しく灯っている。
「私は、もうこの熱い気持ちに嘘をつけない!!楽しかったあの小学生の日々の大事なもの、この私が覚えてないなんてありえない!!」
「…かほ?」
「この世界が間違ってるんだ!!!」
叫んだ瞬間、彼女は「青」に飲まれた。




