feel
弓が糸に触れる。
それは、空から落とした鳥の羽根のように軽やかで、何一つ無駄も迷いもない、繊細な動きであった。
そして、放たれる一音。
音は驚くほどシャープに鼓膜を貫く。それなのに、痛みや不快感を伴わない。夢のような響きだ。
例えるなら、春疾風。音が耳に入った瞬間から途切れるまで、あの男の感情の束とイメージが脳裏に浮かんでいた。それは何回も絹ごしされたかのような最高純度の煌めきを放っている。
僕がたった一音に魅了されているうちに、音は次々と繰り出されていた。
高い音。低い音。長い音。短い音。時には音同士が重なって何とも幻想的な音を作り出す。
頭のなかに自然と疑問が浮かんできた。
何故これらの音を音としか形容することができないのか。
おかしいと思う。それでも自分には、男が発するものを「音」としか言い表すことができないのだ。
じゃあどうして、この「音」にこんなにも胸が締め付けられるのだろうか。
僕をこんな状態にさせる得体も知れない何かの正体は何か?確実に偏見だが、少なくとも「聴覚」でないと思っていた。それでも僕は不思議だった。この「音」からは、修学旅行から帰ってきた夜に家で食べる母が作るカレーの味がする。数年来に訪れる神社に生える金木犀の香りがする。
――何故自分の気持ちに嘘をついているのか?
男の言葉がふとよみがえる。
「…気持ち?」
その次に、目の前の光景に驚愕した。
確かに見えるのだ。白銀の風が。
それは、激しく、それでいて何一つの乱れもなく優美に男の周りを取り囲む渦となって周り巡る。
傍から見れば、半透明の円錐状の塔が突然そびえ立ったようなものであった。
だが、その異常性に気づいているのは僕だけだ。まさか、子供たちにはこれが見えていないというのか。
その時、塔のように見えたものは頂上からリボンのように解け、鋭い矛先が現れる。
自分が瞬きした間だったか、認識すらできないままその矛先は狼の胴体を貫いていた。
奇妙な狼の傷口から噴き出したのは血液ではなく、青い塵のようなものだ。それも、ちょうどさっき公園自分が目撃したものと同じようなものだ。みるみるうちに狼の身体は瓦解し、形すら無くなってしまった。何が起こったのか丸一つ理解することはできなかったが、正直そんなことはどうでも良かった。
だって、今は僕自身が分からないのだから。
あてもなく俯いている自分に男が近づいてくる。どうやら元のみすぼらしい格好に戻ったようだ。
「整理はできたか?」
――お前のせいで、もっと訳分からなくなったよ。
怒っている訳ではない。とはいえ、顔全体が熱くてどうにかなりそうではある。
それでも、ひとつ聞きたいことがあった。ついさっき考えた事だ。
「ひとつ聞いていいです…?」
「…何だ」
男はその言葉を待っていたかのように僕に言葉を返す。その佇まいは堂々としていた。
「気持ち…感情って一体何なんですか?」
男の顔が硬直する。急に目を見開くものだから、反射的にビクッとなった。
そして、おもむろに額に手を当てると、何故かわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「重傷だな……これ。こっちはてっきり『音楽』のことを聞いてくるもんだと思っていたんだが」
数秒間沈黙が流れた。「音楽」という言葉も気にはなったがとりあえず目先の疑問を解決しておきたい。
「…えっ本気?」
男の素っ頓狂な声が静寂を破った。
「本気ですが」
「…それ本当に、この俺に聞きたい事なのか?」
「そうです、何なんですか感情って。自分が知っているものと誤解があるのかもしれない」
「…少なくとも、さっき生ニンジン渡したお前みたいな奴が聞いてくることかよ…」
「いや、ニンジンはただ単に選ぶのがめんどくさかったので」
「こんの…クソガキがよ………いや、でも俺の見込みだと…???」
見るからに男の顔が困惑している。普段しなびてみすぼらしい顔をしているから、さっき狼を倒した時の次にいい顔に見える。
「…じゃあ俺の曲はどうだった?感想を教えてくれ」
感想と言われても…あの不思議な体験をどうやって言葉すればよいものか。
黙りこもってしまったので男が顔をしかめてもう一度尋ねた。
「…それなら、身体の反応でいい。どの場所がどうなったのか五感で説明しろ…」
「いつから医者になったんですか?」
「お前が訳分からないくらい鈍感だからだよ!!」
「うーん。胸が苦しくなった。あと、カレーの味と金木犀の匂い」
「…カレー?金木犀?まあ、いい。それが感情だ、分かったか?」
「なるほど」
理解できたのかできなかったのか正直よく分からない。感情ってそんな曖昧なものなのか?そんな他愛も無いものが、これまで自分が押し殺そうとしてきたものなのか?なんというか、足りない、という感想が残る。
「…まあ俺にはお前が感情を押し殺しているように感じたんだよ。誤解だったようだが」
「当たりですよ?何で、そう思ったんです?」
「は?」
「感情と呼ぶには足りないと思ったんです。僕が押し殺しているのはもっと程度が甚だしいものだから」
その瞬間、男は何かを理解したように軽く相槌を打ちながら呟く。
「……理解した。こりゃバケモノだ」
「…?」
なんて言われたのかうまく聞こえなかったが、多分ろくでもない事だろう。
「ところで、さっき言ってた『音楽』って…?」
「ここでその質問かよ…。もう何言おうか忘れちまったんだが」
「用意してたんですか、プレゼン資料は…?」
「そこまでは用意してねぇよ!何か恥ずかしいだろ!」
男は一呼吸して、咳払いをして言う。
「…『音楽』ってのはな、この世に存在しないんだ」
――存在しない…?
「…というか、存在できなくなってしまった、の方が近いか。ずっと昔に盗られたんだよ、この世界に本来無くてはならない大事なものを」
数秒間空けて、男は話を続ける。
「『音楽』は時間芸術、複数の音の絶妙な組み合わせできている。だが、『音楽』はそんな単純に言い表せるものではない。そう、『感情』だ。『感情』が織り込まれることで初めて『音楽』は生まれるんだ」
ふと、先ほど男がやったことを思い出す。あれは「演奏」…「演奏」?
確か、男は「ヴァイオリン」を持って「曲」を「奏でて」いた。
いや、うん?えっ?今の今まで知らなかった言葉が次から次へとあふれ出してくる。それも、どの言葉もしっかり形や意味を持ってイメージすることができる。
知っていたのか?僕は「音楽」を。
「…僕は今まで何を?」
「みんなそうだ。忘れてんだよ『音楽』を」
自分でも驚いている。「音楽」が心の中にあるだけで、自分が押し殺している気持ちが今にもあふれ出してきそうだった。なのに、嫌な心地はしない。
「…この先の異能紛いのこととかはあいつに任せるか、俺は余計な事言えねぇし面倒くさい」
「あいつ?」
「…気にすんな、その内出てくる」
「出てくる…?」
もう西日が差しており、男の背景は赤みを帯びていく。子供の声も知らぬ間に無くなってしまったせいで、二人の沈黙はより一層際立っている。
「…ひとつ忠告しておこう」
口を開いたのは男だった。
「指揮棒を持つ人間…あと黒いフードを深く被った灰色の髪の女には気をつけろ。…もし見つかったら死ぬ気で逃げろ。いいな…?絶対に捕まるんじゃねぇぞ」
水落はこれまでにないほど深刻な顔つきでこちらを見る。声もワントーンくらい下がって聞こえたように感じる。
――指揮棒?フード被った女?
「死ぬ気でって…。そもそも、貴方は何者なんですか、名前は?」
「………水落。お前に言えるほど大したこともしてないろくでもない人間だ」
「知ってる」
「…」
「でも、さっきの演奏聴いた感じ、ただ者でないことくらいは分かりますよ」
水落は、何も告げずそのまま歩き去ってしまった。その佇まいは何というか、最初の姿とは違ってちんまりとしていた。ところで、みすぼらしい格好をしたあの人に帰る家はあるのだろうか…。
空は黄昏色に染まり、男の長い影法師はみるみるうちに長くなっていく。時間が経つと、影が辺り一帯を支配して、彼に一人をより自覚させる。
水落は、吹かす煙草も無いまま、路地裏にある金網によたりかかる。
「……音導師:アパッショナートか。もう一度、聴かせてくれよ…」
男は天を仰ぎ見て、口から何かを吐き捨てるようにまた俯いた。




