My heart moving?
波風を起こさず生きること。”少なくとも”僕はそうするのが好きだ。
人間が感じる感情の数は、いま生きている人間の数だけ存在すると思う。
もちろん怒りにまかせて暴れ回ろうが、悲しみにくれて泣きわめこうが、それは勝手にすればいい。
僕に賛否の権利はないし、人の思考を推察する余地もない。
だって、人の気持ちなんて真に理解できないんだから。
授業終了を告げる「単音」のチャイムが、無機質にボーンと耳の奥で木霊している。教壇に立つ数学教師は宿題のページ番号を告げ、白いチョークでその数字を転記しているようだ。でも、今日習った指数対数の公式や宿題なんかよりチョークで黒板を打ち付ける軽快な「音」のほうがよっぽど頭に残る。
ふとした瞬間に、ほんのりと凪いだ心が揺らぐような気がするのだ。
帰りの支度をしていると、辺りの喧噪の中から一人がずんずんと近づいてくるのが分かった。
まあ、あいつだろう。考えるまでもない。
「響揮、お前また変な考え事してたでしょ!授業中ずーーっと明後日の方向向いてるの丸わかりだから!」
目の前のセミロングで赤みがかった髪型をした女子は、幼なじみの糸桜かほだ。いつにも増して高飛車な態度で近づいてきたが、経験則からしてこういうときの彼女は軽くあしらってあげた方が良い。
「前半はちゃんと授業聞いてたよ。かほこそ、居眠りしてたんだろ」
「っほへ?」
一体どこから出るんだよ、そのひょうきんな声…。
「顔に変な跡ついてる。あと寝癖」
「いやぁ~ばれてしまったなら仕方ない、貴様はここで始末する!」
「変装した悪の組織の下っ端か何かかよ」
すると、かほは柄から刀を抜くような仕草をし始めた。まあ、こういうときは大抵機嫌が良いときだから特に気にしなくて大丈夫だろう。
「成敗いたぁーーす!!」
「あー、えっと、あーどうか、御容赦を…」
「じゃあさ、せめて何をぼーっと考えてたのか教えてよ」
「ふぅん、予想は?」
どうせ外れるだろう。
「感情を殺して生きたいなぁーとか?」
僕の心はまた揺らいだ。でも、そんな心の動きを確認しているうちに、気づくとまた凪いでいた。
現状を保っているうちは僕の心は安泰だ。でも、自分が本当はどう在りたいのか、そんなことは分からない。
ひとつ分かったことは、自分の思考をずばりと言い当てたかほが、人の心が読めるすごい人間だということだけだった。
かほと別れた後、特に用事もなかったので直接まっすぐ帰ることにした。
僕の高校は、家から自転車で20分くらい走った所にある。なんていうか、家からそんなに離れていないような気はするのだが、徒歩では到底通学することができない絶妙な場所である。
いつものように、僕は自転車にまたがって坂道を下っていく。
風を切る音と自転車のギアが回転する音だけに支配されるこの瞬間は、僕のお気に入りの一つだ。
騒がしい教室や音吐朗々と僕に話しかけてくるかほが苦手な訳ではないのだが、そんなものから解放されて、かけ離れた性質を持つ二つの音の交わりに心を委ねるのは、なんというか心地よい。
少しばかり自転車で走ると、横手に細い路地が見える。日当たりが良い、僕が毎日使っている近道だ。ただし、地域の住民も日々利用している道であるから、学校からは自転車を降りて通行するよう指定されている。
今日はいつもよりも通行人は少ない。僕は自転車から降り、重い荷物を背負って、のろのろと路地を歩いて行く。特に考えることはない。ただやみくもに自転車を押して進むだけだ。
――そのはずだったのだが。
誰だよ。僕の足を掴む奴は。
足下を見ると、なんというかくたびれて情けない感じの中年男が一人。この人が着てる服の布、全部牛乳を拭いた後の雑巾なんじゃないかと疑うレベルで臭い。長身ですらりとした印象はあるが、上から見下ろしているのにも関わらず無精髭が目立っていて、とにかく不衛生という印象しか受けない。それにしても臭い。
「あの、離してください」
「…嫌だね、俺は空腹なんだ。何か食料を恵んでくれないと」
めんどくさいのにひっかかってしまったなぁと思う。
こういう感じの人は助けてあげると、かえって執着されて手に負えなくなるからタチが悪い。あくまで経験則だが。まぁ、走って逃げるか。
足を必死に振り払い、自転車を前に進ませる。それでも、男の両手は接着剤でも仕込んでいるのではないかと錯覚するくらい僕の左足をがっちりと掴んでいる。
なんで、握力がそんなに強い訳じゃないのに足から手が離れないんだよ。すべての指が無駄なく絡めついているような感じだ。軟体動物の類なのか?
しかも、最悪なことにこんな日に限ってスマホを家に置いてきてしまった。近くを警官どころか人一人通らないのは、もはや都合が良すぎるのでは。叫んで周りの住民に助けを求めることも一瞬脳裏をよぎったが、あいにく自分の性格が邪魔をしているせいで、脊髄反射的に却下してしまっている。
「本当に、離してください」
「…君がさっさと奢ってくれればいい話だろうが」
今度は自転車を押しながら全力で走り抜ける。かろうじて前には進むものの、男の手は決して離れることはない。
「何か食べ物あげれば、解放してくれるんですね?」
妙に長い沈黙が続いた後、男が答える。
「…ああ。約束する。早くしろ。」
あぁ、かみさま一生のお願いです。どうか僕を無事に家まで帰らせてください。
後腐れがないように、近くのスーパーでなんでもいいから適当に買って満足してもらおうと思った。
男はずっと、しつこく僕の後ろをついてくる。それはもう、逃げたら殺すみたいな形相で。それにしても、匂いが異常に気になる。割と本気で、近くに温泉があったなら一刻も早く突き落としてやりたい。
路地からちょっと歩くと、よく見慣れたチェーン展開しているドラッグストアがあったので、そこで食料を買い与えることにした。
店内は、ほかの客の話し声以外特に何も聞こえない。当然のことなのに、心にぽっかり穴が空いた気分になるのはどうしてだろう。
男は変わらず僕の後ろを尾行している。周囲の客からの視線が鋭く僕に突き刺さる。とはいえそれ以上に視線を集めているのは、異臭を放つ、とてもみすぼらしい件の男なのだが。ここで助けを請うことできたが、ここで逃げるほど自分は鬼ではないことは自負している。仮にも空腹を訴えている男だ。食料を与えてから逃げれば良い。
「これでいいですよね?」
そう言って、僕は元値の三割引で購入した生のニンジンを差し出す。
男は何も言わなかったが、地味に嫌な顔を浮かべているのを僕は見逃さなかった。生野菜じゃ不満なのかよ。傲慢だな。
そんな男の無言の訴えは無視し、僕は背を向ける。
悪いけど、僕は一刻も早くここから立ち去りたいんだよ。
男は、渡されたニンジンを洗いもせずにポリポリとかじり始めた。
その真っ黒な瞳の視線の先は、響揮ではなく、ニンジンでもなく、ただ何にもない虚空へと向けられていた。
「それじゃあ、僕は帰るんで」
僕は自転車にまたがって、再び帰路につこうとした。
「…俺は一体何者なんだろうな……」
男が溢した言葉に、僕は何も感じることはできなかった。
ドラッグストアを出て道沿いにちょっと自転車で走ると、小さな公園が見えた。幼稚園児か小学生くらいの子供が遊具で他愛なく遊んでいる。
が、どことなく違和感を覚えた。
何だろう、青い粒子が次々と公園の方から現れて、その上空に凝集していっている。
僕は自転車を止めて、その様子をちょっと離れた位置から観察する。
次々と現れる粒子は球状の瑠璃のような物体になると、内側から何かが突起していき、歪な形へと変貌した。変貌した物体はみるみるうちに生物のような形を留め始め、次の瞬間、膜が破れて中から半透明な青色のオオカミみたいなものが姿を現し、地上に落ちた。
奇妙な色をしたオオカミは咆哮を上げる。
耳の奥にまで響く強烈な音だった。だが、近くにいた子供はその存在に全く気づいていない様子だった。
一体、何が起こっているのだ。あんな奇妙な生き物見たことがない。
きっと、僕の幻覚なのだろう。あのおっさんに巻き込まれて、頭がおかしくなったのだろうか。
しかし、依然としてあのオオカミは子供たちを狙っているように見える。万が一、子供たちに危害が加わったら…。でも、自分の足は石のように固まって、一歩も動かすことはできなかった。
「…幻覚じゃねえよ」
「…!」
振り返ると、さっきのおっさんがニンジンをかじりながら、僕の後ろに立っていた。
「お前、何故自分の心に嘘をついているんだ?」
「いや、嘘なんてついてな…」
「反抗しようとしているのが、何よりの証拠だ。胸に手を当ててみろ。お前の心臓は動いていないとでも言いたいのか」
この男、どうして、自分の内面に探りを入れ始めたんだ。しかも台詞まで臭い。だが、僕の心がドキッとしたのは事実だ。
「自分の心に素直に生きろ。それが絶対的な『正解』だ」
決め台詞的なものを言うなり、男は公園の半透明の青いオオカミを見つめる。
「…あまり気分が乗らない仕事だが、ニンジンの借りとしよう。少年、チケットフリーのスペシャルコンサートだ。耳の穴かっぽじって、しっかり聴いておくがいい」
男はニンジンを最後一囓りし、残りの食べられない部分は投げ捨て、公園へと歩いて行く。
公園に踏み込むと、両目を閉じて、先ほどのみすぼらしい印象とは真逆の雰囲気を漂わせる、あまりにも優雅で上品なお辞儀をした。
目を見開くと、金色に光り輝く瞳が鋭く、オオカミの姿を捉えていた。
ふと気がつくと磨かれた琥珀に閉じ込められた夕焼けのような色艶をした、なだらかな曲線を描く、4本の糸が張られた道具と、弓のような物が手に握られていた。衣装も以前の格好とは全くもって違う、白いシャツに黒色の燕尾服、白色の蝶ネクタイという極めてフォーマルな服へと変貌した。
男は先ほどの道具を首元に挟み込むように構え、唱える。
「…前奏曲《疾風》……!」




