第12話 憧れの人
【3月15日(火曜日)】
「!?」
カーテンがない部屋に朝の眩しい光が差し込むと、全は勢いよく跳ね起き、枕元に置いてあったタブレットをひっつかんだ。
画面に映し出された口座残高は、『880,405円』から『80,005円』へと減っていた。
「夢じゃなかったか…………」
全は全身の力が抜けたようにタブレットを床に落とし、人差し指だけで『エンジニア 求人』と検索窓に打ち込んだ。
そのまま『検索』ボタンを押そうとしたが、指先の動きがピタリと止まる。
「ん~…………」
全はうなり声を上げて、入力した文字をすべて消去し、『自殺 方法』と新たに打ち込んだ。
それからしばらくタブレットを操作したあと、窓から外を見て人通りがないことを確認し、身支度もせずにふらりと外へ出た。
このとき、玄関の鍵をかけるのを忘れていた。
海岸沿いの道を歩いていると、背後からパタパタと軽い足音が近づいてくるのが聞こえ、全は気まずそうに振り返った。
「ママ、海~」
「そうね」
そこにいたのはマリアではなく、見ず知らずの親子だった。
(…………平日のこの時間にまた会うわけないか)
商店街にある薬局で代金を支払った全は、心ここにあらずといった様子で自動ドアを出た。
「お客様、お釣りと商品をお忘れですよ! はいどうぞ、ありがとうございました~!」
慌てて追いかけてきた店員から小銭とレシート、レジ袋を受け取った全は、『小計:4,000円 戦後賠償税:4,000円 合計:8,000円』と印字されたレシートを財布に押し込んだ。
そのままぼんやりと横断歩道を渡り始めたが、途中で信号が点滅し、進むべきか戻るべきか迷っているうちに、車にクラクションを鳴らされてしまった。
(この辺は昔と変わらないな)
全は周囲の景色を見渡し、商店街を離れた。
海へと続く坂道を下っていると、前方から自転車が向かってくることに全は気づいた。
(おっと)
全は左手に提げていたレジ袋を右手に持ち替え、道を譲るために端へ寄る。
そのとき、近くの立て看板がふと目に留まった。
『この先危険! 海へ飛び降りる前にご相談ください』
「…………ほほう」
全はガードレールを乗り越え、岬の奥へと進んでいく。
少し歩くと、そこは海に面した断崖絶壁だった。
高さはおよそ30メートル。
まさに飛び降りるにはうってつけの場所である。
「何だ、こんなに低いのか…………」
しゃがみ込んで海面を見下ろし、全はいつものように気の抜けた顔でつぶやいた。
そのままレジ袋を地面に置き、ふと行方不明になった瞳に思いを馳せる。
(まさか誘拐されるとはな。ニュースくらい見るようにしてれば、あのとき家まで送れたか…………)
岩場に腰を下ろして、アザラシを眺めながら、全はぼーっとしていた。
その背後から、ひっそりと近づく人影があることには気づかずに。
「どうかされましたか?」
「ぬ」
全が振り返ると、そこには屈んでこちらを覗き込むマリアの顔が、息がかかりそうなほど近くにあった。
「あ…………」
2人は慌てて目を逸らし、気まずい沈黙が流れた。
(…………何でまたこの子が…………)
全は光るコンタクトレンズでカレンダーを確認する。
そこには、『戦後賠償の日』とあった。
(そうか、今日は祝日ってやつか…………)
「「…………」」
「「あの」」
「あ…………、どうぞ」
マリアに譲られ、まずは全が話すことになった。
「いや…………、どうしてこんな危ないところに入ってきたのかなと思って」
「それはこちらのセリフです」
マリアは少し困ったように微笑み、腕章を指さした。
「私、地域のボランティアで、自殺防止パトロールをしているんです」
「…………なるほど」
全はマリアの表情を盗み見る。
(見た感じ、あの日のトラウマは残ってないようだな)
全はどこかホッとしたような、感慨深い顔つきになった。
「そうか…………、そうか…………」
「…………何か、変でしょうか」
「はは。いえ、ただ、まだ若いのに立派だなと…………、感心してただけですよ」
マリアは優しく微笑み、ゆっくりと首を振った。
「お褒めいただくほどのことではありません」
マリアは両手を後ろで組み、水平線を眺めながら言葉を続ける。
「これは、身の上話になってしまいますが…………、私、昔ある人に命を救われて…………、それだけではなく生きる希望まで与えていただいて…………、その日の感動を今でも忘れられなくて…………。それで、この活動を始めただけなんです」
マリアの告白を聞いて、全は驚きに目を丸くした。
「本当はいけないことなんですけど…………、こうしていろんな場所を見回っていれば、いつかその憧れの人に再会できるんじゃないかと期待しながら…………」
マリアが言葉を切ると、岬には波が岩に激しく打ちつける音だけが響いた。
全は明るく笑って何かを言おうとしたが、すぐに真剣な表情になって口をつぐんだ。
そして、少し間を置いてから、静かに言葉を返した。
「…………そんな事情があったんですね。なら、きっとその人も誇りに思ってるはずですよ」
そう言って、全は両膝に手をついて立ち上がった。
「さて、じゃ、俺はそろそろ帰るとします」
「え? でも…………」
全はズボンについた汚れを払い、レジ袋を拾い上げると、マリアに背を向けて歩き出した。
「大丈夫です。俺はただここから海を眺めてただけですので、気にせずパトロールを続けてください」
「本当に…………、大丈夫なんですか?」
マリアはまだ心配そうに尋ねる。
「面倒なことが嫌だから自殺するのに、わざわざ面倒な自殺はしませんよ」
そんな適当な言葉を残し、全は片手をひらひらと振りながらその場を後にした。
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