7話 ありがとう
初めて出逢った翌週の金曜日は。彼女が初めて僕に「したいこと」を口にしてくれた日だった。
「今日は食べたいものがあるんですが、作ってもいいですか?」
この二日間、僕たちは少しずつ一緒に過ごす時間を増やしていた。食事を作ったり、後片付けをしたりする。その中で、澄が何を好むのか、弟や妹との想い出を話してくれる。そんな小さなことを、一つずつ知っていった。
最初に出会った頃よりも、僕たちの物理的な距離は近くなっていたからこそ、そう切り出してくれたのだろう。
「いいよ。それで、何を作りたいの?」
金曜日という少し間の悪い曜日であるものの、僕はそれに対して許可をする。澄はぱぁ~っと表情を明るくしながら口を開いた。
「ちらし寿司を作ってみたいんです」
「ちらし寿司?」
あまり食べた記憶のないものを言われて、思わず首を傾げる。緑やピンク、黄色。そんな色の具材が乗った、鮮やかな料理だったという記憶だけはある。
けれど、どんな味だったのかまでは思い出せない。昔は、もっと一般的な料理だったのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。
「よく食べていたの?」
そう尋ねると、彼女は首を横に振った。
「いえ、お寿司は高級で、食べられませんでした。そんな私たちにお母さんが作ってくれたのが、ちらし寿司でした」
その瞬間、彼女の表情が少しだけ柔らかくなった。まるで、目の前にその日の食卓が浮かんでいるみたいだった。
「本物のお寿司が食べたいって言っていた弟たちも、たくさんの食材が使われているので、目を輝かせていたのを覚えています」
彼女は小さく笑った。
「何の具材を入れるかって、弟や妹と話し合いながら食べるちらし寿司が好きだったんです」
「具材を?」
「はい。家族みんなで、それぞれ好きなものを入れて作ったりして」
そのときのことを思い出したのだろう。彼女の声が、少しずつ弾んでいく。
「誰々のが美味しいとか、これは入れすぎだとか。そんなことで盛り上がったりできるんです。そんなふうに楽しい思い出が詰まってるちらし寿司を、食べたいなと思ったんです!!」
彼女はそう言って、嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、なんとなく分かった。彼女がちらし寿司を選んだ理由を。もちろん、僕のためでもあるのだろう。
この二日間、一緒に料理をするなかで、きっと彼女自身は、元の時代にいたあの時間を思い出したかったのだろう。家族と一緒に食卓を囲んで。誰が作ったものが美味しいのかで笑ったその時間を。
そんな風に僕にも笑ってほしいと思っているようだった。いまもそうだが、彼女と話していると、弟や妹のことを本当に大切に思っていることが分かる。
些細な出来事まで、まるで昨日のことのように覚えている。きっと、誰かが笑っている姿を見るのが好きなのだろう。相手が楽しそうにしていれば、それだけで嬉しい。そんなふうに生きてきたのかもしれない。
そんなふうに楽しく食事をしたことって、いったいいつだろうか。ふと記憶を探り、頭が痛くなる。
「……っ」
思わず目を伏せる。母のことを思い出そうとしたのだと、自分でも直感的にわかった。
「大丈夫ですか?」
すぐに澄が駆け寄って僕の近くまでやってくる。反射的に、僕は避けるように一歩後ろへ下がってしまい、澄の足が止まる。彼女は何も悪くないと言うのに、申し訳なさそうな表情をする。
「……ごめん……少し誰かと距離を置くきっかけを、思い出しかけたてしまった」
言葉にするだけで胸が重くなる。それでも僕と向き合ってくれた彼女には伝えたいと思った。
「君のことを嫌っているわけじゃない。澄がいい人だってことも分かってる。それでも僕は……まだ誰かを受け入れる余裕がないんだ」
最後の言葉は、ほとんど消え入りそうだった。
「……ごめん」
澄は少しだけ目を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「いえ。そんなふうに気持ちを伝えてくれるだけで、私は嬉しいです。ありがとうございます」
こんな風に受け入れるとわかっている。だから、気持ちを話せることも。それでも、僕はまだ、誰かと距離を縮めることを恐れていた。
澄は切り替えるように明るい笑顔で告げる。
「今日は、一緒に買い物に行っていいですよね?」
「……うん」
彼女は目を細めながら、弾んだ声で口を開く。
「ありがとうございます」
その明るさに僕は救われるのだった。
***
初めて買い物に出かけると彼女は目を輝かせながらいろんな食材をみていた。
「すごいですね。こんなにたくさんのものが並んでますよ」
そう告げる彼女に、こういった場所がたくさんあると告げたら、きっと驚くのだろう。その事実にふと笑みを零している自分がいて、驚いた。どれにしましょうか。なんて楽しそうに食材を選んでいるからだろう、きっと僕はつられて笑ってしまったのだ。
振り返った彼女は俺の方を見つめると、どこか驚いたように目を丸くしていて、思わず首をかしげてしまう。
「……ん? どうかした?」
「いえ」
そう言った彼女は、慌てるように視線を食材へ戻した。けれど、その横顔は先ほどよりも少しだけ嬉しそうに見えた。
彼女と初めて作ったちらし寿司は、思っていたよりもずっと美味しかった。
「これ、おいしいですよ」
なんて差し出されて食べたものは、自分が作ったものとは違い、食材の良さを互いに引き立てていた。酢飯の酸味に、具材の甘みや食感が重なっていく。思わず、素直な感想が口から零れる。
「……美味しい」
あまりに自分好みの味に驚いていると、「お口にあってよかったです」と笑う澄の姿が見える。その姿を見た僕の口からふと感謝の気持ちが零れていた。
「ありがとう」
その事実に少しだけ驚く。澄は僕を見つめて、より一層笑みを深めるのだった。
***
その夜。いつものように日記を開く。明日になれば、僕はまた記憶を失うから。だから、今日あったことを忘れないために記載していく。
今日話してくれた、作ってくれたちらし寿司のこと。そして家族との想い出。一つずつ思い出しながら、書いていく。そして最後に、今日のことを一行だけ記した。
『僕は今日はじめて、彼女に心から感謝した。ありがとうと』
その文字をしばらく見つめてから、ノートを閉じた僕は布団に入り、眠りにつくのだった。




