15話 無力感
家に帰ると、澄は玄関を入ってからもほとんど口を開かなかった。何が書かれていたのか。聞きたいことはたくさんある。けれど、今の彼女に無理やり聞くべきじゃないことくらいは分かっていた。
「……まず、少し温かいもの飲もう」
そう言って、僕は台所へ向かう。空調を効かせながら、温かいお茶を淹れる。体を温めた方が気分が落ち着くだろう。そう思いながら、澄の前に湯飲みを置く。
「ありがとう……ございます」
澄は両手で湯飲みを包むように持って一口飲む。それから、しばらくの間。僕たちの間に会話はなかった。それでも、不思議と気まずくはなかった。
澄が何かを考えていることだけは分かる。僕もまた、何を聞けばいいのかを考えていた。やがてぽつりと言葉を零す。
「……先ほどの本なんですけど、読んでいて……分かったことがあるんです」
「……何が分かったの?」
恐る恐る尋ねる僕に返ってきたのは、少しだけ震える彼女の声だった。
「神様に願って、それを叶えてもらった人は、もう一度願いを叶えてもらうことはできないみたいなんです」
「……それって」
嫌な予感がした。それを肯定するように彼女は頷く。
「私は……元の世界に帰れないみたいなんです」
その言葉が、妙に静かに部屋へ落ちた。
「いや、でも……別の神様なら、可能性はあるんだろ?」
「そういう神様がいることは、本にも書いてありました」
「だったら」
「でも、この辺りには……そういう神様はいないんです」
澄はそう言って、また視線を落とした。僕には、この土地にどんな神様が祀られているのかなんてほとんど分からない。知っているのは日杜命と、縁結びで知られている遥見神社くらいだ。
だから、無責任に口を開くことができなかった。
「……そもそも、神様が特定の人の願いを叶えること自体、珍しいみたいなんです」
澄が静かに続ける。苦しい気持ちを抱いている中で、僕に説明するように。
「その土地で暮らしていること。日頃から神様を信じていること。そういうものが重なって、ようやく願いを聞いてもらえるんです」
「じゃあ……澄は?」
「そうですね……家族と一緒に神社へ行くこともありましたし、それ以外にも、自分で用意できるものを持っていって、お供えをしていました」
「一人でも?」
「はい」
少しだけ笑う。
「家族が笑っている今に、ありがとうって。そう伝えていました」
澄はそこで言葉を止めた。何かを思い出したのか、視線が少しだけ揺れる。
「もしかすると……そのおかげで、今の私は……」
その先は、続かなかった。澄は俯いて、自分の手を見つめている。今ここにいることが、神様から与えられたものなのかもしれない。そう思っているのだろう。
それが本心から願っての想いだとはとても思えなかった、家族のもとへ帰れないという現実に、こんなにも苦しそうにしているのだから。そんな彼女に、何と声をかければいいのか分からなかった。
こんなとき、颯真なら何と言うだろう。
遥なら、どうやってこの子を励ますだろう。
僕には、そんな経験がない。人と関わってこなかった僕には、誰かが苦しんでいるときに、どうすればいいのか分からない。だから結局、何も伝えられず。
「……今日は、僕がご飯作るよ」
そんなことしか言えなかった。
「……ありがとうございます」
澄は小さく笑った。その笑顔が、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。
***
食事を終えた僕は、自室に戻りすぐに調べ始めた。神隠しに関わる神様。人を別の場所へ連れていく存在。元の場所へ帰すための方法。検索結果には、有名な神様の名前がいくつも出てきた。
大国主神。
大物主神。
そして、土地神。
他にも天狗など伝承に伝わる存在も考えられるが、やはり彼女をこの時代まで連れてこられる人物は、日杜命しかいなかった。
神様にはそれぞれの領域がある。その土地を治める神の力は強く、どれほど有名な神であっても、その領域での影響力は土地神の方が強いようだった。
もし澄をここへ連れてきたのが、本当にこの土地の神様なのだとしたら、簡単には覆せない。そんな事実を突き付けられるだけだった。
「……どうすればいいんだよ」
机の上に関係しそうな本を積み上げる。ネットで情報を検索する。それでも答えは出てこない。分かったのは、同じ人間が同じ神様へ二度願うことはできないということ。そして、別の人間がその願いを叶えてもらおうとするなら『代償を求められる』というだけだ。
その代償が何なのか。どれほどのものなのか。詳しいことは分からなかった。ただ、簡単なものではないことだけは想像できた。
何も見つからない。何時間調べても、澄を帰すための方法は見つからなかった。気づけば、窓の外が明るくなっていた。朝の光が部屋へ差し込んでくる。
「……僕に、何ができるのかな」
呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。結局、僕には何もできないまま登校する時間がやってくる。僕が学校に行かなかったらきっと彼女は自分のせいだと責めるだろう。
そうは絶対に思わせたくなかった。僕は何もできない無力感を抱えたまま、僕は学校へ向かった。




