11話 互いの弱さを受け入れて
それから数日間、僕たちの間には少し気まずい空気が流れていた。食事のときも一応会話はするものの……
「今日のおひたし、おいしいね」
「えっ……ありがとうございます」
なんて、そこから先が続かない。いつもなら澄のほうから何か話してくれるのに、今は箸を動かす音ばかりが妙に大きく聞こえた。僕も何を話せばいいのか分からない。それは彼女も、きっと同じだった。
どうすれば、また前みたいに話せるのだろう。そんなことを考えているうちに、金曜日が近づいてきた。金曜日になれば、僕はその日のことを忘れてしまう。なら、その日に話せばいいと思う一方で、また、逃げようとしている。そんな考えが頭をよぎった。
最愛の母の命日も、虐待を受けるのも決まって金曜日だった。僕はずっと、向き合いたくなくて目を逸らしてきた。友人を失うとわかっても、金曜日に記憶を失う現実から目を背けていた。
忘れてしまうのだから仕方がない。そうやって、自分に言い聞かせてきた。
でも、それで、本当にいいのだろうか。こんな僕と向き合ってくれる彼女なら逃げていいのか?
そんなことを考えながら学校で過ごしているとふと、声を掛けられる。
「何か悩み事か?」
顔を上げると、颯真がこちらを見ていた。別になんでもないよ。そう答えてしまいそうになり、口を閉じる。これ以上逃げたくなかったから僕は、素直に相談することにした。
「うん。その……女の子と少し喧嘩みたいな感じになって。どうすれば、元の関係に戻るのかな?」
「それって……遥のこと?」
「いや、別の子だよ」
「そっか……で、喧嘩した原因について話せるか?」
「そうだね……踏み込んでほしくないことを聞いてしまったんだよ。彼女が言いたくないかもしれないことを、聞いたんだ」
「それできまづくなったと」
「そうだね」
颯真は少し考えるように黙った。
「透は、それを聞かないといけないと思ったんだよな?」
「うん」
「関係が悪化するかもしれないってことも想定してたんじゃないか?」
「そうだね……それでも、彼女のことを知りたいと思ったんだ」
「……なるほどな」
颯真はそれだけ言って、少し笑った。
「だったら、素直に自分の気持ちを伝えればいいんじゃないか?」
「気持ち?」
「申し訳ないと思ってるんだろ?」
「……うん」
「だったら、どうして申し訳ないと思っているのかも話せばいい。それを言わずに、何となくやり過ごそうとしていたからきまずくなるんだよ。話せばきっとわかってくれるさ」
言われてみれば、その通りだった。僕は、自分が何を考えているのかも。どうしてあんなことを聞いたのかも。澄に何一つ伝えていなかった。
「……ありがとう、颯真」
「おう」
少しだけ、胸が軽くなった。今夜、話してみよう。明日は金曜日だ。その前に、話しておきたかった。逃げないために。そして、澄と向き合うために。
***
家に帰ると、僕はしばらく自分の部屋にいた。やがて意を決して、澄の部屋の前まで向かう。
コン、コン。
「澄、ちょっといいかな?」
「……はい……何でしょう」
扉が開く。澄は少し戸惑ったような表情で、僕を見た。
「この前は、ごめん。聞いてほしくないことを尋ねて。僕だって、君に隠していることがあるのに、無責任に尋ねた。勝手に原因を探った方がいいなんて思って、踏み込まれたくない部分に踏み込んだ」
「そんなことありません」
澄は否定するように強く首を振った。
「あのとき、変な感じになってしまったのは……私が弱かったからです」
「弱かった?」
「はい」
少し困ったように笑う。
「自分の中で気持ちの整理が整理がついていなかったんです」
それから、しばらく黙った。そして僕の目を見る。
「単純に、思い出せないんです、思い出そうとすると、何かに霧がかかったみたいになってしまって。でも、確かに私は何かを願ったんだと思います」
澄は胸に手を当てながら自分の気持ちを整理するように押し黙る。
「その願いについて考えるのが……少し怖かったんです。それが悪いことだったらどうしようって。少しためらってしまった。ただでさえ、私は透さんに迷惑をかけているのに、これ以上、私のことで困らせてしまうのが心苦しくて。その事実から目を逸らしました」
その顔を見ていると、胸の奥が痛んだ。僕は、こんな顔をさせたかったわけじゃない。
「……ごめんなさい」
澄が深く頭を下げる。
「そんなことないよ。僕のほうこそ、君の気持ちを考えていなかった」
澄が顔を上げて、目を見開きながらこちらを見つめる。
「君は元の世界に帰れるかもしれないんだ。知り合いもいないこの場所で、どれだけ不安なのか……僕はちゃんと考えてなかった」
「そんなこと……」
「ううん、考えてなかったし、君のことを勝手に勘違いしていた。君は強い人だって、決めつけていたんだ」
「……強い人、ですか?」
「うん」
僕は少しだけ言葉を探した。
「一人で知らない場所に来て。それでも君は笑ってた。僕とは違って、辛くて笑えるすごい人だって決めつけていたんだ」
それは僕にはできなかったことだ。一人になったとき、僕は過去から目を逸らした。けれど澄は、家族のことを忘れずにいた。帰る場所を失って、不安を抱えながらも、目の前にいる人を大切にいていた。
「だから、勝手に決めつけてごめん」
頭を下げることを止める彼女に、僕は自分の気持ちを伝える。
「それにさ、君は迷惑をかけてるって言うけれど、そんなことないんだよ。むしろ、そんな君と一緒にいるうちに、僕は少し変われたんだ」
澄が驚いたように瞬きをする。
「学校でも、前より人と話すようになった。前なら言わなかった感謝の気持ちを口にするようになった」
あの日、クラスメイトに「ありがとう」と言えたことを思い出す。
「それは、澄がいたからだよ」
「私が……いたから?」
「うん」
僕は頷いた。
「僕は君と出会って、誰かを受け入れることができるようになった。誰かの好意を受け取れるようになった」
それは、僕自身でも驚くほど素直な言葉だった。
「だから、僕は君に感謝してるんだ……ありがとう、澄」
澄の目が、大きく見開かれ、目からぽたりと涙が落ちた。
「え……?」
本人も驚いたように、慌てて目元を拭う。けれど、次から次へと涙が溢れてくる。
「ご、ごめんなさい……その……違うんです。そういうつもりじゃ……」
澄は何度も涙を拭う。それでも、次から次へと溢れてくる。
「ほんとに違くて、ただ、嬉しいんです。私が……何かの手助けになれていたんだって。そう伝えてくれたことが嬉しいんです」
その言葉に、僕は何も言えなかった。穏やかな気持ちでいて、心が温まる。安堵と嬉しいと告げてくれたことへの感謝の気持ちが芽生えてくる。僕は澄が泣き止むまでそこにいた。
澄は目元を拭いながら、小さく息を吐いた。
「もっと早く、この気持ちを伝えられたらよかったのかな……」
「そんなことないです。きっと今だから、私はその気持ちを受け入れられたんだと思います」
澄はそう呟いて、もう一度僕を見る。
「ありがとうございます、透さん」
僕は小さく頷いた。
「うん」
それから僕たちは、一緒に台所へ向かった。いつものように料理を作る。野菜を切って、鍋を火にかけて。出来上がった料理を二人で食卓に並べる。
「……おいしいですね」
「うん。おいしい」
それだけの会話だった。けれど、その日の食事は、いつもより温かかった。この日がきっと、僕たちが初めて、相手の弱さまで含めて、心を許せたのだと思う。




