9話 少しずつ変わっていく自分
気づけば、学校でも彼女のことを考える時間が増えていた。
今頃、何をしているだろう。
ちゃんと昼飯は食べただろうか。
そんなことを考えている自分がおかしくて、思わず笑みが零れる。誰かのことを、こんなふうに気にかけるなんて。いつ以来だろう。
「君が笑うなんて、珍しいね」
授業中、問題を解いていると、隣の席から声をかけられた。
「そうかな?」
少し面倒には思いながらも、僕は隣に座る少女へ返事をする。
「うん。そうだよ。いつもつまらなそうにしてる。今だって、私に話しかけられて少し面倒だって思ったでしょ?」
「よく見てるね」
思わずそう返すと彼女はくすくすと笑っている。
「否定しないのが君らしいね」
ある種の拒絶とも受け取れる言葉を彼女は笑いながら受け入れた。その事実に少し驚いてしまう自分がいた。明るく活発な彼女は、いつも周囲の中心にいるような印象がある彼女と、根暗な僕。普通ならムッとすると思っていたのだが違う。
彼女は口元に笑みを浮かべながら、どこか楽しそうに告げる。
「それと、私の名前は……」
「時任遥でしょ」
「うん。やっぱり覚えてるんだからさ、名前で呼んでよ。遥って」
急に距離を詰めてくる彼女に、すごいなと思う。こういうことを、ためらわずに言える人だから、クラスメイトからすぐに受け入れられるのだろう。
「……分かったよ。遥」
観念した僕は彼女の名前を呼ぶ。
「うん。じゃあ、私も透って呼ぶね」
満足そうに頷いたあと、彼女は何でもないことのように言った。
「……えっ?」
思わず、戸惑いながら彼女の顔を見る。僕は、彼女に自分の名前を名乗った覚えがなかった。どうして知っているだろうか?というか、距離を詰めるのが早すぎないかと、そんな疑問が頭をよぎる。
そのことを尋ねようとした、その瞬間だった。
「時間になったから、坂井前に出て解いてくれ」
先生から声がかかる。どうやら、制限時間の五分が経っていたらしい。
僕は再度自分の回答を見直し、ふと、隣の彼女の机を見る。遥はすでに問題を解き終えていて、僕と同じ答えが書かれていた。ただ、途中式は少し違う。かなり勉強ができるんだな。最適に解かれたその解答に感心する。
きっと彼女は早く解き終わって暇だったから話しかけてきただろう。なら、これから先に話しかけられることはないだおろうと安心する。
それから授業は、いつも通り進んでいった。先生の話を聞き、ノートを取る。次の問題を解いて、答え合わせをする。その間も、隣から何度か視線を感じた気がしたが気にすることなく授業を受け続ける。
そうして授業を受けているうちに、気づけば授業も終わりに近づいていた。
「それじゃあ、課題のプリントを配るから。後ろへ回してくれ」
授業終了三分前。先生の声とともに、前の席からプリントが回ってくる。もし、澄がこの教室にいたら。そんな、ありえないことを考えてしまった。ちょうどそのとき、前の席からプリントが回ってくる。
「ほら」
「ありがとう」
受け取った僕がそう言うと、前の席の男子が戸惑ったように振り返った。
「……ん?」
何かしただろうか。
「プリント、もらっていいかな」
「あ、ああ」
僕はプリントを一枚渡す。そして後ろを振り返ると、今度は後ろの女子も、どこか不思議そうな顔で僕を見ていた。何か顔についているのだろうか。
けれど、そんなものはない。隣では、遥がくすくすと笑っていた。まるで、僕だけが何も分かっていないと言うように。
「何?」
「いや」
遥は笑いを堪えながら、前の席の男子を見る。
「君が急に『ありがとう』なんて言うから、驚いたんじゃないかなって、ね。そうでしょ、颯真?」
「そうだな」
颯真と呼ばれた男子は、少し困ったように頭を掻いた。
「いや、悪い。そういう失礼な意味じゃなくてさ。いつもお前って、なんていうか、つまらなそうな顔してるから。そんなふうに穏やかな顔もするんだなって思って」
「……」
「いや、大したことじゃないんだけどさ。ごめんごめん」
そう言って、颯真は申し訳なさそうにする。けれど、僕にはその言葉が妙に引っかかった。きっと、颯真の言う通りなのだろう。澄と出会う前の僕は、こんなふうに過ごしていた。誰かに話しかけられても面倒だと思う。誰かが近くにいても気にしない。ただ一日を終わらせることだけを考えていた。
「……いや」
自分でも少し驚きながら、口を開く。
「きっと、その通りだと思うよ。颯真がそう感じるのも無理はない」
「そうか?」
「うん」
そう答えた瞬間、自然と表情が緩んだ。澄と出会ってから、僕は少しずつ変わっている。そのことを、今になって実感した。
「やっぱ変わったなお前」
「そうかな……」
少しだけ考える。
「うん。そうだと思う」
それから、僕は小さく笑った。
「ありがとう」
「お……おう」
颯真は少し戸惑ったように返事をした。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「じゃあ、次の授業も頑張ろうね、透」
そう言って、彼女は何事もなかったかのように友達の方に駆け寄っていく。僕はその横顔を見つめながら、胸の中に残った疑問をどこかへとやるのだった。
それがきっかけだったのかは分からない。けれど、それからというもの、授業でペアを組むときなどに、遥が話しかけてくることが増えた。例えば英語の授業。いつもなら必要なことだけを話して終わるところを、彼女は授業が終わったあとにも声をかけてくる。
「ねえねえ、透って好きなものあるの?」
「好きなものか……」
少し考える。
「そうだな。自然とか好きだよ。癒されるし」
「私も好きだな、特に神社とかには、よく参拝に行くんだよ」
「神社?」
「うん。御朱印帳って知ってる?」
「知ってるよ。持ってはいないけど」
「ええ、もったいない」
そんなふうに、遥は僕にいろいろなことを聞いてくる。他のクラスメイトなら、きっと面倒だと思っていた。けれど、不思議と遥に対しては、そういう感情があまり湧かなかった。どこか、澄に似ている。
相手が踏み込んでほしくない部分には決して踏み込まずに、引く。
「……そろそろ時間か。ごめんね、話に付き合わせちゃって」
そうやって、周囲がこちらに注目しだすと友人のところに行く。常に笑っている所や、気を配っている部分がどことなく似ていた。まぁ、彼女の方は少し強引に話しかけてくるところはやっぱり彼女と違うなと納得する。
同時に、そんなふうに誰かに興味を持てるようになったことにも気づく。少し前までの僕なら、隣の席にいる人が何を考えているのかなんて、気にしたこともなかった。けれど今は違う。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだ分からない。それでもその変化を、嫌だとは思わなかった。




