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クラスで異世界転移、彼女は勇者。でも僕は死ぬ  作者: あーる


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3/4

死んでも死なない

 低木の陰から、灰狼の影が滲み出てくる。


 蓮はその光景を、地面に膝をついたまま見ていた。吐き気はまだ治まらない。口の端に残った胃液の苦さが、舌の上でじりじりと広がっている。涙が頬を伝っているのを感じるが、拭う気力もなかった。


 灰狼は三頭いる。どの目にも知性の光はない。ただ腹を減らした生き物の、乾いた殺意だけがある。


 このまま動かなければ食われる。


 わかっている。わかっていて、身体が言うことを聞かない。


 蓮の頭の中に、これまで積み上げてきた死の記憶がいっせいに蘇った。首から肩を引き裂かれた熱さ。背中の骨が折れる音。岩盤に叩きつけられた頭蓋の衝撃。夢の中の出来事ではない。確かに自分の身体が経験した、紛れもない「死」の記憶だ。


 それでも。


「ここにいても、死ぬだけだ」


 声に出したのは、自分を鼓舞するためというより、もはや呪文に近かった。膝に両手をついて、蓮は身体を持ち上げる。足が震えている。視界がわずかに揺れる。それでも立てた。


 灰狼たちが低く唸り声を上げた。


 蓮は踵を返して走り出した。



 今度は川のある方向ではなく、東へ迂回するルートを取った。前二回のルートは頭に焼きついている。左手の岩場は崖があって危険で、正面の低木地帯は狼の縄張りだ。ならば東だ。荒野の地形がどうなっているかはわからないが、同じ道を辿って同じ死に方をするよりはましだという、消去法の判断だった。


 灰狼たちは数十メートル追ってきたが、やがて追跡をやめた。縄張りの境界でもあるのかもしれない。蓮はそれでも走り続け、十分ほど経ってからようやく速度を落とした。


 荒れた地面に低木が点在する景色は変わらなかったが、少し先に草丈の高い一帯が見えた。草があるということは、水が近いかもしれない。蓮の喉は乾きで張り付いていた。唾液も乏しく、口の中がざらついている。


 草むらへ近づきながら、蓮は足元を慎重に見た。


 見ていなかった場所を。


 草と土の境目あたりに、細長い影が横たわっていた。


 見た瞬間には、枯れ枝かと思った。


 それが動いた。


「——っ」


 後退する暇はなかった。鋭い刺痛がふくらはぎを貫いた。縫い針を束にして押し込まれるような、細く深い痛みだ。蓮は反射的に足を引いたが、すでに遅かった。草むらの中から逃げていく、平べったい頭の蛇の尾が見えた。


 噛まれた、と理解した。


 最初の数秒は、痛みだけだった。


 じわじわと、灼けるような熱がふくらはぎから膝へ這い上がってくる。毒だ、と思った次の瞬間、舌の付け根がしびれ始めた。足の感覚が遠くなっていく。まるで綿を詰め込まれていくような、奇妙な鈍さが膝から腰へと広がる。


 蓮は地面に手をついた。倒れる前にそれだけはできた。


「なんで」


 声が情けなく掠れた。毒が喉まで来ている。呼吸が浅くなる。景色が傾いていく。草の匂いの中で、蓮の意識は薄れていった。



 耳の奥で、何かが弾けた。


 世界が白く弾けた。


 そして。


 枯れ木があった。


 同じ枯れ木。同じ荒野。同じ灰色の空。蓮は膝立ちのまま、その場にいた。ふくらはぎに痛みはない。舌のしびれもない。身体はどこも傷ついていない。


 でも。


 足の感覚が遠くなっていく、あの感覚が皮膚の裏に貼りついていた。毒に侵されていくときの、身体が自分のものでなくなっていくような恐怖が、幽霊のように全身に残っている。


 蓮は草むらへ近づいた自分を思い出す。


 枯れ枝だと思っていた。


 違った。


 情報として刻んだ。あの草むらには蛇がいる。次は近づくな。


 次、という言葉を、蓮は今や自然に使うようになっていた。



 北へ向かった。


 地形が少し変わり、岩の露出した固い地面が続く一帯に出た。足元は安定している。灰狼の気配もない。日は傾き始めていて、空が鈍い橙色に染まりかけていた。


 前方に、岩肌を伝う細い水の筋が見えた。


 滲み出てくる湧き水だろうか。その先に岩が段差を作っていて、そこから下へ降りれば、水音に近づけるかもしれない。蓮は慎重に岩を手で確かめながら斜面を下りはじめた。


 中ほどまで来たとき、右足の下の岩がずれた。


 音もなかった。予兆もなかった。風化した地盤がそこだけ崩れていて、蓮が体重をかけた瞬間に支えを失った。


 落ちる。


 そう認識したときには、もう空中だった。


 背中から落ちた。岩の角がいくつも身体に当たって、そのたびに鈍い衝撃が走る。止まらない。転がりながら落下していく感覚の中で、蓮の頭は奇妙なほど冷えていた。


 また、か。


 と思った瞬間に、頭が何かに当たった。


 世界が、消えた。



 耳の奥で、何かが弾けた。


 枯れ木。荒野。灰色の空。


 今度の幻痛は背中にあった。岩に打ちつけられた衝撃が、なかったはずの皮膚の下にいくつも残像を刻んでいる。蓮は地面に手をついて、しばらくそこから動けなかった。


 頭の中で、岩の段差の地形が書き直される。あの場所は地盤が崩れている。南側の端から回れば安全かもしれない。あるいは別のルートを探すか。


 蓮は立ち上がった。


 迷っている時間が惜しい。喉の渇きは限界に近づいている。


 五回目は、迷走した末に灰狼の群れと再び出くわした。


 北東へ向かうルートを試みたが、地形が徐々に下り坂になっていくにつれ、低木の密度が増していった。茂みをかき分けていた蓮は、前方に六頭の灰狼が固まっているのを見て、止まった。


 目が合った。


 走って逃げようとした。


 追いつかれた。


 腿に牙が刺さった瞬間の、皮膚ごと引き裂かれる熱い感触を、蓮は地面に倒れながら覚えた。もう声も出なかった。涙も出なかった。ただ、また枯れ木に戻るのだろうな、という静かな確信だけがあった。



 耳の奥で、何かが弾けた。


 枯れ木の前だった。


 蓮はその場に座り込んだ。正確には、足の力が抜けて崩れ落ちた。幻痛が腿を焼いている。牙が入ってきたときの、皮膚が裂ける生々しい熱さが消えない。吐き気が胃の底から突き上げてくる。


 口を手で押さえて、蓮はしばらく深呼吸を繰り返した。


 そして、自分の手のひらを見た。


 傷は、ない。


 どこも傷ついていない。


 喉を引き裂かれて死んだ記憶がある。背中の骨が砕ける音を聞いた記憶がある。頭蓋を岩に打ちつけた記憶がある。毒に侵されて意識を失った記憶がある。背中から崖を転がり落ちた記憶がある。腿の皮膚が牙に食い千切られる感触を覚えている。


 全部ある。


 でも手のひらは、傷一つない。


「俺は」


 蓮は声を出してみた。かすれた声だった。


「死んでも、死なないのか」


 荒野に言葉が吸い込まれていった。


 誰も答えない。当たり前だ。でも声に出してみなければ、自分がそう考えていることすら気づけなかった気がした。


 蓮はゆっくりと、これまでに起きたことを整理した。


 死んだら、同じ場所に戻される。毎回、この枯れ木の前だ。最初から一度もここ以外の場所で目覚めたことがない。身体の傷は全部消える。でも記憶は全部残る。痛みの記憶も、恐怖の記憶も、死ぬ瞬間の感触も、何一つ消えない。


 法則がある、と蓮は思った。


 これは偶然ではない。何かが、繰り返させている。


 五回分の死の記憶がある。五回分の、灰狼の行動の記憶がある。どこで出くわした。どの方向へ逃げた。どこで追いつかれた。何頭いた。どこの縄張りで引き返した。


 蓮は地面に指で線を引き始めた。地図を書くように。記憶の中の地形を、土の上に再現していく。


 狼の群れは北東の低木地帯にいる。東の草むらには毒蛇がいる。南の岩場は縄張りの端で、ある程度の距離まで追ってくるが引き返す。北は地盤の崩れた崖があるが、南側の端を迂回すれば回避できるかもしれない。


 その崖の向こうに、水音を聞いた記憶がある。


 四回目に落ちたとき。崖を転がりながら、下から川の音が聞こえていた。確かに聞こえていた。崖の下に川があるなら、崖の南端を迂回すれば同じ水場へたどり着けるかもしれない。


 蓮は立ち上がった。


 足は震えていた。腿の幻痛がまだ残っていた。それでも立てた。


「もう一回だけ」


 呟いて、蓮は歩き始めた。



 南寄りに進んで、岩場の縁を慎重に辿った。崩れていた地点を確認しながら、手で岩の固さを確かめながら、ゆっくりと高度を下げていった。崖の南端は緩やかな斜面になっていて、岩は古く固く締まっていた。


 下りられた。


 傾斜を下りきった先に、水の音があった。


 岩の間を縫うように流れる、細い川だった。透明な水が白く弾けながら流れている。蓮はそこへ駆け寄り、両手を水に浸けた。冷たかった。切りつけるような冷たさが手首まで包んで、幻痛の熱を少し和らげてくれた。


 水を掬って飲んだ。


 異世界の川の水が安全かどうかなど、わからない。でも飲まなければ今夜は越えられない。死んだらまた戻ればいい、という思考が、今の自分の中に自然に存在していることに、蓮は少し驚いた。


 何口か飲んで、岩に腰を下ろした。


 川の音が耳に満ちていた。


 日が沈みかけていた。橙と灰の空が、荒野を薄い色で染めている。


 蓮は自分の両手を見た。水に濡れた手のひらが、夕暮れの光の中で微かに揺れていた。震えていた。


 五回死んだ。


 その事実が、今になって改めて全身に降りてくる。恐怖でも怒りでもない。もっと重い何かが、少しずつ胸の中に積み重なっていくような感覚だ。全部の死の記憶が、傷跡のように内側に刻みついている。消えない。消えることは、たぶんないのだろう。


 眼が滲んでいるのか、それとも手が震えているのか、自分ではもうわからなかった。わかったのは、自分がまだここにいる、ということだけだった。


 川の水が、橙色の光の中で流れ続けていた。

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