小鳥遊 ひなた
川沿いを歩き始めて、どれくらい経っただろう。
太陽の位置が変わらないわけではないから、時間は確かに流れている。それでも蓮には、この荒野での時間感覚がまだ掴めていなかった。死と蘇生を八度繰り返した身体は、普通の時間の流れ方を忘れかけているような気がした。
川は濁っているが、流れは穏やかだ。岸には低い草が生えている。さっきまでの荒野とは少しだけ空気が違う。土の匂いが湿っていて、どこか生き物の気配がした。
蓮は立ち止まり、深呼吸をした。
右の脇腹に、鈍い痛みがある。実際の傷はない。皮膚を確かめれば綺麗なままだ。しかしそこには確かに、灰狼に噛まれた感触が染みついている。四度目の転落の際に崖の縁で全身を打ちつけた感覚も、頭の後ろにまだ残っている。幻痛というより、記憶が身体の表面に刻まれているような感じだった。
剥がそうとすると、余計に意識がそこに向いてしまう。
だから蓮は、歩くことに集中していた。川の流れを見ながら、足元の石を避けながら、ただ前へ進むことだけを考えていた。
それでも、ふとした拍子に記憶が浮かび上がる。
牙が首に刺さった瞬間の、熱。崖の岩に頭が叩きつけられた刹那の、白い閃光。毒蛇に噛まれた足首の、引き攣れるような焼け感。どれも一瞬のことなのに、繰り返し、繰り返し。映像のように鮮明というよりは、感覚として身体に染み込んでいる。
胃の下の方がぎゅっと縮む感覚があって、蓮は立ち止まった。
「……落ち着け」
声に出すと、少しだけ楽になった。空気の振動を感じると、自分がまだここにいることを確認できる気がした。
歩きながら、川の向こうに目を遣ると、岩の陰に何か黒いものが見えた。
最初は岩の一部だと思った。この荒野には奇妙な形をした岩がいくつもある。しかしその黒いものは、岩にしては輪郭が柔らかすぎた。しかもよく見ると、微かに動いている。
蓮は足を止め、息を殺した。
膝を低くして草の陰に身を潜め、目を細める。川幅はそれほど広くない。距離は三十メートルほどだろうか。黒いものが何なのか、徐々に形が認識できてきた。
制服だ。
女子の制服。
紺色のスカート。白いブラウスの袖。膝を胸に抱え込んで、岩に背中を預けている。栗色のショートボブが風に揺れている。身じろぎするたびに、肩が少しだけ震えていた。
蓮の心臓が、強く跳ねた。
人間だ。
少なくとも見た目は、自分と同じ日本の高校生の格好をしている。こんな荒野に、自分以外の人間がいる。
確認より先に、身体が動いていた。
川の浅瀬を探して渡る。水は冷たく、靴が濡れた。対岸に上がり、蓮は声を抑えながら近づいた。野生動物のように、相手を驚かせないように。
「……ねえ」
呼びかけた瞬間、人影がびくりと跳ね上がった。膝が胸から離れ、顔が蓮の方を向く。
小さな顔に、大きな目。目の下が赤く腫れていた。少し泣いていたのか、それともずっと泣いていたのか、判断がつかなかった。頬にそばかすが散っていて、視線は最初に蓮を捉えた瞬間から、怯えと混乱の間を行ったり来たりしている。
見覚えがある。クラスメートだ。名前は……えーと。
「……桐生、くん?」
向こうが先に名前を呼んだ。
「そう」と蓮は答えた。声が思ったよりかすれていた。「えっと、ごめん、名前」
「小鳥遊ひなた。ひなたって読む。たかなし」
「小鳥遊さん」
「……うん」
沈黙が落ちた。荒野の風の音と、川のせせらぎだけが聞こえる。
ひなたは膝をゆっくりと下ろした。全身の力が抜けたように見えた。涙が頬を伝い、彼女はそれを制服の袖で拭った。
「良かった」とひなたが言った。声が震えていた。「人間だった。ほんとうに、人間だった」
その一言が、蓮の胸の奥に刺さった。
そうか、と蓮は思った。この子も、ずっと一人だったのか。
「どのくらいここにいた」
「……二日、くらい、だと思う」
「二日」
蓮は言葉に詰まった。自分は八度死ぬ経験を積み重ねてきたが、この子は二日間、何もせずにここで震えていたということか。食事はどうしたのか、水は。
「何か食べた?」
ひなたは首を横に振った。
「水は?」
「川の水を少し」
蓮は川の方を振り返った。上流でよほど何かが混ざっていなければ、飲めないことはないだろう。しかしそれだけで、二日。
「立てる?」
ひなたはもう一度、今度はゆっくりと頷いた。足元がおぼつかなかったが、蓮が手を差し伸べると掴んで立ち上がった。手が冷えていた。指先が少し震えていた。
岩の横に、黒い焦げ跡がある。焚き火の跡だった。石を丸く並べて、その中で何かを燃やした痕跡だ。
「これ、あなたが?」
「うん。昨日の夜、何とか作って。でも薪が尽きて、それからはずっとここにいた」
蓮は焚き火の跡を見た。石の並べ方は丁寧だ。この子は一人で、それだけのことをやった。怯えながらも。
二人で川岸の草地に移動し、地面に腰を下ろした。
蓮はこれまでの状況を、必要最小限だけ話した。自分も転移してきたこと、荒野で数日間生き延びてここまでたどり着いたこと。死のことは話さなかった。八度の死と蘇生は、口にする言葉が見つからなかった。それ以上に、この子に話したとして、どうなるというのか。今は、ただ現状を整理する方が先だという判断が自然に出てきた。
「桐生くんは、スキルって知ってる?」
ひなたが聞いてきた。
「スキル?」
「転移してすぐ、右手の甲に文字が浮かんだの。私のは『薬草園』だった。この世界のスキルだと思う」
右手の甲。言われた瞬間、蓮は視線を下に向けた。自分の右手の甲を、今まで意識して見たことがなかった。
そこには、かすれた墨書きのような文字があった。
『リスタート』
蓮は声をあげなかった。ただ、呼吸が止まった。
リスタート。
その言葉と、死ぬたびに同じ枯れ木の前に送り戻されてきた経験が、音を立てて結びついた。やり直し。リスタート。スキル。これが、自分の力の名前だったのか。
八度の死の間、この文字が右手にあったはずだ。なぜ今まで見なかったのか、と思ったが、それは単純な話だった。確認する余裕が、一度もなかった。
「桐生くんは、どんなスキルだった?」
ひなたが覗き込んでくる。蓮は一瞬だけ間を置いた。
「よくわからないスキルだった」
嘘ではない。まだ全容は分かっていない。死んで戻ることと「リスタート」という名前が繋がっただけで、なぜ戻れるのか、限界はどこにあるのか、何も分からない。
それに、自分が何度も死んだことを、初対面に等しいこの子に話す気にはなれなかった。
「私のも、よくわからない」
ひなたはそう言って、地面を見た。右手をそっと草地の土にかざす。
すると、土がわずかに盛り上がった。
芽が出た。細い双葉が、ひなたの掌の下からゆっくりと顔を出した。それは瞬く間に茎を伸ばし、小さな葉を広げ、三センチほどの高さの薬草になった。緑色が鮮やかで、甘い香りが漂ってきた。
「こういうやつ」
「…… すごいな」
正直に思ったことが口を突いて出た。
「すごくない」ひなたは首を振った。「戦えないし、何かを作れるわけでもない。草が生えるだけ。他の人は炎を出したり、剣を強化したりするのに。こんなの、ハズレだよ」
自嘲するような言い方だったが、本気でそう信じているのが声のトーンから分かった。
蓮はその草に手を伸ばした。指先で葉をそっと触る。瑞々しい感触が、幻痛で渇いていた指先に、少しだけ染み入ってくる気がした。
「食えるのか、これ」
「えっ」
「食べられる?」
「あ、うん。この種類は大丈夫だと思う。えっと、苦いけど」
「他の種類も出せる?」
ひなたは少し考えるような顔をして、今度は少し離れた場所に手をかざした。別の葉が出てきた。形が違う。もう一度かざすと、また別の草が生えた。
「種類を変えられる?」
「うん。頭の中で思い浮かべると、その草が出てくる。でも、食べられるかどうかは、私が知ってる植物じゃないと分からなくて」
蓮は黙って考えた。
二日間何も食べていない人間がいる。自分も昨日から水しか口にしていない。食べられる植物を必要なだけ地面から出せる能力が今どれほど価値を持つか、計算するまでもない。
「ハズレじゃない」
ひなたが蓮を見た。
「今、一番必要なやつだ」
ひなたは何か言いかけて、止まった。それから視線を手元の草に戻して、小さく「そっか」と言った。
夜が来た。
焚き火を作り直した。ひなたが「こういうの育てられるかも」と言って出した乾いた茎が、よく燃えた。火の明かりの中で、二人は少しだけ食べた。苦い草だったが、空腹には関係なかった。
ひなたは焚き火の傍で眠った。少し時間がかかったが、やがて寝息が聞こえてきた。
蓮は眠れなかった。
火を見ながら、右手の甲を見た。かすれた文字が、炎の光を受けてわずかに揺れているように見える。
リスタート。
やり直し、か。
八度の死と、八度の蘇生。あの度に身体の奥で何かが弾けて、同じ場所に送り戻された。死の感触だけを残して。この力がなければ、最初の夜に三つ目の獣に引き裂かれたまま終わっていた。
力だ、と蓮は思った。使い方によっては、とんでもない力だ。しかし代償として何かを削られているのも分かる。八度分の死の感触が、今も皮膚の下に重なっている。
炎が一度、大きく揺れた。
隣で、ひなたが寝返りを打ち、また静かな寝息に戻った。
その音を聞いていると、胸の奥で何かが緩む感じがした。
一人ではない。それだけのことが、こんなに違う。死の記憶は消えないし、右手の甲の文字の意味もまだ全部は分からない。帰り方も分からないし、凛花がどこにいるかも分からない。
でも今夜は、焚き火がある。隣に人間がいる。
蓮は膝に頬杖をついて、炎を見続けた。




