僕は死ぬ
喉が乾いていた。
それだけが、蓮の意識を引き戻す感覚だった。
獣に引き裂かれた記憶が脳裏に焼きついているはずなのに、気がつけば蓮は荒野に立っていた。制服は破れ、首から肩にかけてひりひりと痛む。しかし血が出ている様子はなく、傷口らしい傷口も見当たらない。夢だったのだろうか、と思いながら、蓮はふらふらと歩き続けた。
判断力が落ちているのは自分でもわかっていた。最後にまともに水を飲んだのはいつだっただろうか。今朝、学校に来る前に飲んだ麦茶が最後だ。あれから何時間経った? 太陽の位置を見ると、空は夕方に向かって傾き始めている。四時間か、五時間か。
足が重い。
地面に落ちる自分の影を見つめながら、蓮はただ歩いた。廃墟らしき影は相変わらず遠く、向かっているのかどうかも定かではない。方向感覚は完全に狂っていた。どこへ向かっても、同じ景色が続いているように思える。
そのとき、光が見えた。
光ではなく、反射だった。地平線の少し手前、枯れた低木のむこうに、何かがきらりと瞬いた。水だ、と蓮の身体が反応した。頭で考えるより先に、足が動いていた。
近づくにつれて、確かに水の気配がした。乾いた大地の裂け目に、細い川が流れている。大したものではない、幅三メートルほどの浅い流れだが、蓮には充分すぎた。枯れ木の間を抜け、緩い傾斜を下りながら、蓮は川へと向かった。
その気配に、蓮が気づいたのは半分ほど近づいたときだ。
左の低木が、揺れた。
風ではない。風は止まっている。
蓮は足を止めた。
低木の陰から、灰色の影が滲み出るように姿を現した。一頭。次に右から、もう一頭。三頭目は背後だった。振り返ったとき、それは既にすぐそこにいた。
灰色の毛並みの獣だった。狼に似ているが、足が六本あり、頭部は異様に平たい。目が四つある。それぞれの目が、蓮を別々の角度から見ている。口元は緩く開かれ、牙がぬらりと光っていた。
逃げろ、という本能が身体を動かした。
川へ向かう傾斜を駆け下りようとして、足がもつれた。乾燥した土の感触が頬に触れ、膝と手のひらが地面に叩きつけられた。痛みよりも速く、蓮は立ち上がった。走った。川に飛び込もうと思った。獣が水を嫌うかどうかは知らないが、他に選択肢がなかった。
背中に、衝撃が来た。
六本足の獣のうちの一頭が、跳び乗ってきた。その重量に膝が折れ、蓮は前のめりに倒れた。背中に牙が食い込む感覚がした。熱い、と思った。鋭い痛みではなく、深く、確実に、内側に向かって進んでいく感触。
呼吸ができなかった。
声も出せなかった。ただ、地面の小石の感触が頬に刺さっていること、土と鉄の混じった匂いが鼻を突くことだけが、妙にはっきりと感じられた。
背中に体重がかかっている。牙が、もう少し深く沈んでいく。
「あ、」
そんな音しか出なかった。
身体が動かない。腕が震えているが、地面を押す力が出ない。視界の端で、もう一頭の灰狼がゆっくりとこちらへ近づいてくるのが見えた。急いでいない。この獣たちは、もう結果を知っているかのような動き方をしていた。
背中の熱が、全身に広がっていく。血が出ている、と蓮は理解した。温かい液体が背中を伝い、脇腹を濡らしていく感覚がある。こんなに血というのは温かいものだったか、と蓮はぼんやりと思った。
死ぬのか。
思ったというより、確認だった。
灰色の空が視界に広がっていた。先ほどより少し暗い。夕方が近づいているのか、それとも意識が落ちかけているのか。どちらでもいいような気がした。
凛花の手が、瞼の裏に浮かんだ。
光の中で、こちらへ伸びていた手。届かなかった手。
世界が、消えた。
暗い。
何もない。
音も、痛みも、温度も、一切ない。ただ暗闇だけが続いている。続いている、という感覚すら正しいかどうかわからない。時間があるのか、ないのかもわからない場所に、蓮はいた。
そして。
耳の奥で、何かが弾けた。
鋭い音ではなく、風船が内側から膨らんで皮膜を破るような、奇妙な感覚。視界が一瞬、白く飛んだ。身体ごと引っ張られる感覚があった。どこかへ向かっている。どこへかはわからない。ただ、ものすごい速度で、何かの方向へ。
目の前に、枯れ木があった。
蓮は立っていた。
立っている。背中に、牙が刺さっていない。倒れていない。川への傾斜の前、枯れ木のすぐそばに、ただ立っている。
「……え」
声が出た。出た自分に驚いた。
手のひらを見た。傷がない。膝に触れた。破れていない。背中に手を回そうとして、肩がうまく動かないことに気づいた。震えているからだ。腕が、見たこともないほど細かく震えていた。
夢だった、と思おうとした。思えなかった。
背中が、まだ痛い。牙が食い込んだあの感覚が、皮膚の下に貼りついて離れない。血が流れる温かさも、地面に叩きつけられた土の感触も、全部、全部まだそこにある。
夢なら、こんな感触は残らない。
吐き気がした。
胃の底から何かが迫り上がってくる感覚に、蓮は口を押さえた。こらえようとしたが、こらえきれなかった。腹が絞られるように収縮して、蓮は枯れ木に手をついて前屈みになった。何も食べていないから、胃液しか出なかった。それでも身体は止まらなかった。何度か波が来て、ようやく収まる。
荒い息を吐きながら、蓮は顔を上げた。
そして、左の低木が揺れているのを見た。
風はない。
足が、固まった。
灰色の影が、低木の陰からゆっくりと滲み出てきた。一頭。次に右から、もう一頭。
蓮の頭の中で、何かが鳴った。警告でも、叫びでもなく、ただ、静かな確認音のようなものが。
同じ獣だ。
同じ場所だ。
さっきと同じことが、今まさに始まろうとしている。
「何が、」
声が喉で詰まった。
何が起きているのか、わからない。死んだはずだ。確かに死んだ。牙が背中に食い込んで、血が流れて、意識が消えた。それは夢じゃない、そんなはっきりとした夢を見る人間はいない。でも今、蓮はここに立っていて、傷一つない。
どういうことだ。
どういうことなんだ。
三頭目の気配が背後で動いた。
反射的に、蓮は別の方向へ走った。今度は川へ向かわず、右手の開けた地形へ向かった。脚が震えているのに走れているのが不思議だった。恐怖が、身体の震えより速く動いていた。
岩場に差し掛かった。足場が悪い。それでも止まれなかった。後ろから灰狼の足音が迫っている。
岩を踏んだ瞬間、石が崩れた。
身体が傾いた。
気づいたときには、落ちていた。
崖だった。三メートルか、四メートルか。岩場の向こうがそのまま断崖になっていた。蓮は何も掴めないまま宙を落ち、頭から岩盤に叩きつけられた。
衝撃。
痛みよりも先に、頭の中で何かが白く飛んだ。
世界が、消えた。
枯れ木の前だった。
蓮は膝から崩れ落ちた。立っていられなかった。両手が地面につく。指先が土に触れている。土が、ある。ここは確かに現実だ。
頭が割れるように痛かった。岩に叩きつけられた感触がまだ残っている。頭頂部から首筋にかけて、じんじんとした痺れが走っている。
今度は吐く中身もなかった。ただ、胃が何度も痙攣した。空の嘔吐が繰り返される。涙が出た。泣こうと思ったわけじゃない、ただ眼球が勝手に水を滲ませた。
二回、死んだ。
それだけはわかる。
一回目は獣に食い殺されて、二回目は崖から落ちて頭を打って死んだ。どちらも夢じゃない。身体が、覚えている。背中の牙の感触と、頭が岩に当たった瞬間の感触と、両方が今でも皮膚の下に残っている。
でも、何故か、ここに戻ってきている。
同じ場所に。同じ時間に。
「何が、起きてる」
声は出なかった。口が動いただけだ。
左の低木が、また揺れていた。
蓮は動けなかった。膝をついたまま、揺れる低木を見ていた。灰色の影がゆっくりと現れ始めている。
怖い、という感情が、今さらのように全身に広がった。死ぬことへの恐怖ではなく、「また死ぬことへの」恐怖だった。あの感触をもう一度経験することへの恐怖が、蓮の身体を地面に縫いつけていた。
立ち上がれなかった。




