彼女の眼差し
目を開けた瞬間、桐生蓮が最初に感じたのは、土の匂いだった。
湿った黒土と、どこか甘い草の香りが混じった空気。仰向けに倒れた背中には、ごつごつとした石の感触がある。灰色の空が広がっていた。見慣れない空だ。雲の形も、光の色も、ついさっきまでいた教室の窓から見ていたものとは、まるで違う。
「……ここ、どこだ」
声に出してみたが、答える者は誰もいなかった。
蓮はゆっくりと身を起こした。周囲を見渡す。荒れた大地が地平線まで続いている。枯れた低木がまばらに生えているだけで、建物の影も、人の気配もない。遠くで何かの鳴き声が聞こえた。聞いたことのない、低く唸るような声。
ポケットに手を入れる。スマートフォンが指先に触れた。画面を点けると、時刻は表示されているが電波は圏外。当然だ、と蓮は思った。ここが日本であるはずがないということは、身体が既にわかっている。
あの光の直後だ。教室にいた。隣の席で天城凛花が小さく悲鳴を上げたのを、最後に覚えている。
立ち上がると、ふらついた。
膝の震えが自分でわかる。怖い、という感覚が、今さらのように腹の底から這い上がってくる。しかし不思議なことに、頭は妙なほど冷えていた。パニックになって走り回るより、まず状況を把握することだ。クラスの他の連中ならともかく、蓮はそういう人間だった。感情より先に、観察が動く。
制服のまま、ここにいる。体に目立った外傷はない。靴も履いている。鞄はない。落としたのか、転移の際に消えたのかわからない。スマートフォン、財布、ポケットに入りっぱなしだったミントのタブレット。それだけが手持ちだ。
もう一度、周囲を確認する。
荒野だ、と言う以外に適切な言葉がなかった。大地は灰色がかった茶色で、草はまばらにしか生えていない。小石が多く、踏むたびに乾いた音がする。風が吹くと、細かい砂が舞い上がった。遠くに山の稜線が見える。それが唯一の目標物だった。
「とりあえず、歩くしかないか」
誰に言うわけでもなく呟いた。自分の声を聞いて、少しだけ落ち着いた。
光のことを思い出そうとすると、記憶が滑る。
五時間目の授業中だった。現代文の、退屈な授業。担任の林田が黒板に板書している最中に、それは起きた。教室の中央から、突然、白い光が溢れた。目を潰すような強さではなく、むしろ柔らかい光で、最初は誰も悲鳴を上げなかった。ただ静かに、教室全体が光に浸されていった。
その中で、蓮は隣を見た。
条件反射のようなものだった。光が差してきた方向に顔を向けたら、そこに天城凛花がいたというだけの話で、特に深い意味はない。ないはずだった。
だが彼女は、蓮の目を見ていた。
クラスの中心にいるような子ではなかった。いや、逆だ。天城凛花は誰からも好かれていて、誰とでも話せて、成績も運動もトップで、教室の中で常に柔らかい光のようなものを持っている子だった。そんな子が、なぜ、あの瞬間に蓮を見ていたのか。
光が強くなった。世界が白くなる直前、凛花が腕を伸ばした。
蓮に向かって。
指先が近づいてくる感覚があった。届きそうで、届かない距離。彼女の口が何かを言っていたが、音は聞こえなかった。光が全部を塗り潰して、それで。
記憶が、そこで途切れている。
荒野を歩き始めてどれくらいたつのか、正確にはわからなかった。スマートフォンの時計によれば四十分ほど。だが足元が悪く、体力の消耗は早い。空腹感はまだないが、喉が少し渇いてきた。
水がいる。それと、屋根。
もし本当に異世界に飛ばされたのだとしたら、夜がどれほど寒いかもわからない。日が傾いてきているように見えるが、この星の自転が地球と同じだという保証もない。考えるべきことが多すぎて、蓮は一度、深く息を吐いた。
考えても仕方のないことは、後回しにする。今できることに絞る。
水と屋根。それだけを優先する。
歩いていると、遠くに何かの影が見えた。低木の群れではなく、もう少し高さのある、不規則な輪郭。岩の塊か、あるいは廃墟のようなものか。距離はある。二キロほど先か、それ以上か。この荒野では遠近感が掴みにくい。
それでも、蓮は迷わずそちらに向かって歩き出した。
他に選択肢がない、というのもある。しかしそれだけではなく、立ち止まっていると、さっきの記憶が戻ってくるのだった。白い光の中の、伸ばされた手。届かなかった指先。あの瞬間、蓮は何を考えていたのか、自分でもよくわからない。ただ、手を伸ばし返せばよかったとは思う。後悔かどうかもわからない、曖昧な感触が、胸のあたりに引っかかっている。
唸り声が近くなった。
立ち止まる。左側だ。枯れた低木の陰から、何かがこちらを見ていた。
体長一メートル以上はある。四本足で、全身が黒い体毛に覆われている。顔は犬と爬虫類を混ぜたような奇妙な形状で、鼻先が長く、牙が口の外に出ている。目が三つあった。額の中央に、もう一つ。その三つの目が全て、蓮を見ている。
見たことのない生き物だ。
胃が、きゅっと縮む感覚がした。
逃げるべきか。走ったら追われる気がする。かといって、向き合って勝てる相手ではない。素手で、しかも制服姿で。
蓮は息を殺したまま、じっと目を合わせ続けた。下手に動かない方がいい。向こうが先に動くのを待つ。目を逸らしたら、それが合図になる気がした。理屈ではなく、本能的な判断だった。
二秒が過ぎた。三秒。
生き物が、低く唸った。一歩、踏み出してくる。
蓮は、そのとき初めて気づいた。自分の手が、細かく震えていることに。怖い。怖い、と頭が言っている。脚が動かない。これが命の危機というものか、と妙に冷静な部分が観察している。
一歩、また一歩。
生き物が跳んだ。
蓮が咄嗟に横に転がったのは、考えるより先に身体が動いた結果だった。爪が制服の肩をかすめ、生地が引き裂かれる乾いた音がした。転がった先で石に肘をぶつけて、激痛が走る。しかし立ち上がる。走れ。
走り出した瞬間、背後で唸り声が上がる。
追われている。追いつかれる。それは蓮にも、走りながらわかった。足が遅すぎる。地面が悪すぎる。生き物の脚はもっと速い。石に足を取られてよろけた瞬間に、背中に衝撃が来た。
体が吹き飛んだ。地面に叩きつけられて、息が出来なくなった。
背中に重さがのしかかる。牙が首筋に近づいてくるのを、横目で見た。蓮は地面を掴もうとしたが、腕が言うことを聞かない。
終わった。
そんな言葉が、頭の中を過ぎった。
終わった、と思った瞬間、痛みがあった。引き裂かれるような感覚が首から肩にかけて走り、その熱さと鋭さに、声も出なかった。視界が急速に暗くなっていく。灰色の空が遠くなる。
どうしてここで死ぬんだ、と思った。
凛花の、伸ばされた手を思い出した。
届かなかった。
世界が、消えた。




