2話
心臓が、まだ落ち着かない。
春樹はノートを閉じたまま、しばらく机の上に置いた手を見ていた。指先が、さっきまでとは違う温度を持っている気がした。
東雲あかり。
名前を持った瞬間に、それはただの悪戯や偶然ではなくなった気がする。文字の向こうに、確かに誰かがいる。そう感じてしまう自分が、少しだけ怖い。
――いや、落ち着け。
これは十年前の日記だ。今、目の前に彼女がいるわけじゃない。ただ、過去に書かれた文字が、たまたま自分の書き込みに“反応した”ように見えるだけかもしれない。
そう思おうとしたけれど、うまくいかなかった。
もう一度、そっとノートを開く。
同じページに、あかりの文字が続いていた。
『今日は雨でした。図書室の窓に、水滴がいくつも並んでいて、それを眺めているだけで時間が過ぎていきます』
『あなたのいる場所は、今、何月ですか?』
何月、か。
春樹は少し考えて、ペンを取った。今度は迷いが少なかった。
『四月です。桜はもうほとんど散りました』
書いてから、付け加える。
『そちらは、何月ですか』
書き終えて、ノートを閉じる。
窓の外では、野球部のかけ声が遠く響いていた。いつもと同じ放課後のはずなのに、今日はやけに時間の流れが速く感じられる。
次の日も、春樹は図書室に向かった。
昨日までとは違う。足取りに、はっきりとした目的があった。
棚の奥からノートを取り出し、震える手でページを開く。
文字が増えていた。
『四月なんですね。こちらも四月です。桜は、まだ少し残っています』
――同じ季節。
偶然だとしても、不思議な感覚だった。まるで、同じ場所の、少しだけずれた時間を歩いているような。
『桜が散る前に、教室から見える並木道を歩くのが好きでした。誰もいない時間に、ひとりで』
『あなたも、そういう場所はありますか?』
春樹は少し迷ってから、書いた。
『特にないです。図書室にいるだけで、十分でした』
書いてから、それが少し寂しい答えだと気づいた。
けれど、消さなかった。
嘘をつく理由が、なかったから。
その日から、ノートのやりとりは、少しずつ習慣になっていった。
毎日ではない。あかりの返事が来る日もあれば、来ない日もある。ページをめくっても、昨日書いたままの文字しかないこともあった。
それでも、春樹は毎日、放課後になると図書室に足を運んだ。
いつからか、文庫本よりも先に、あの薄茶色のノートに手が伸びるようになっていた。
『好きな本は、宮沢賢治です』
ある日、あかりはそう書いていた。
『銀河鉄道の夜が、一番好きです。何度読んでも、最後の場面で泣いてしまいます』
春樹は、その作品を読んだことがなかった。
その日の帰り、書店に寄った。
文庫本を一冊買って、電車の中で開いた。
物語の中の、どこか寂しくて、けれど温かい情景に、思わず引き込まれる。
最後のページを閉じたとき、窓の外はもう暗くなっていた。
――彼女は、こんな物語が好きなんだ。
そう思うと、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
次の日、ノートにはこう書いた。
『銀河鉄道の夜、読みました。最後の場面、確かに、少し泣きそうになりました』
少し迷って、続ける。
『あかりさんが好きな本を、これからも教えてください』
名前を書いたのは、初めてだった。
書いてしまってから、急に恥ずかしくなって、ノートを閉じた。
『沢山教えますね。あと、私小説を書くのも好きなんです。小説家になりたいなーなんて思ったりしてて』
初めて名前で呼んで少しドキドキしていた春樹とは対照的にあかりは自分の夢を語った。
そこで少し違和感気気づいた。
まだ教えていないじゃないか。僕の名前を。
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