3話
春樹はあかりの名前を初めて呼んだが自分の名前を名乗っていないことに気づいた。
当たり前のことに、今更ながら気づいて、少し可笑しくなった。
春樹は、ペンを取る。
『そういえば、まだ名乗っていませんでした。山川春樹といいます』
書いてから、少し照れくさくなって、ノートを閉じた。
次の日、返事があった。
『春樹さん、というんですね。よろしくお願いします』
『私は東雲あかりです。もう名乗っていましたが、改めて』
文字の並びに、小さな笑いが滲んでいるような気がした。
『春樹さんは、どんな本をよく借りるんですか』
問われて、春樹は少し考える。
『ミステリーが多いです。あと、静かな話が好きです。事件が起きなくても、人の心の動きだけで進んでいくような』
『わかります。派手じゃなくても、心に残る話ってありますよね』
『あかりさんは、書く方は、何を書いているんですか』
少し踏み込んだ質問だった。書いてから、消そうか迷う。
けれど、そのままにした。
返事は、次の日に来た。
『恥ずかしいですが……小説を書いています。まだ誰にも見せたことがないものです』
『どんな話ですか、って聞いてもいいですか』
『まだうまく言葉にできません。でも、いつか誰かに読んでもらえるくらい、ちゃんとした話にしたいと思っています』
いつか誰かに。
その言葉が、なぜか春樹の胸に、静かに残った。
その週の土曜日、春樹は珍しく学校に来た。
部活もない、行事もない。ただ、あかりが以前「教室から見える並木道が好き」と書いていたのを思い出して、確かめたくなったからだ。
誰もいない校舎は、平日とはまるで違う顔をしていた。足音だけが、やけに大きく響く。
三年生の教室棟の廊下から、外を見下ろす。
並木道が、まっすぐに伸びていた。
葉が風に揺れている。誰も歩いていない、静かな一本道。
――十年前も、きっとこんな景色だったんだろうか。
春樹は、しばらくそこに立っていた。
会ったこともない人のことを、こんなに強く想像してしまうのは、おかしいかもしれない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
月曜日、ノートにこう書いた。
『土曜日、三年生の教室棟から並木道を見てきました。誰もいなくて、風だけが吹いていました』
『あかりさんが見ていたのは、こんな景色だったのかなと思いながら』
次の日、返事があった。
『見に行ってくれたんですね』
いつもより、少しだけ文字が乱れていた。
『嬉しいです。ちゃんと言葉にできないくらい』
そして、こう続いていた。
『春樹さんは、優しい人ですね』
その一文を、春樹は何度も読み返した。
優しい、と言われたのは、久しぶりだった気がした。
クラスでは、ただ大人しいだけの人間だと思われている。夢がなくて、何も語れなくて、輪の中に入れない自分。
けれど、このノートの中では、少し違う自分でいられる気がした。
窓の外は、もう夕暮れに近づいていた。
オレンジ色の光が、机の上に長く伸びている。
春樹は、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
書きたいことは、たくさんあるのに。
うまく言葉にならない。
それでも、ゆっくりと、一文字ずつ綴っていく。
この時間が、もう少しだけ続けばいいと思いながら。




