Episode29・(Waka Side)
当時は閑静な住宅地だった筈なのに、
近年、都市開発が進み家々は全て取り壊され、
現場は鉄骨が無機質に並んだだけ、ほぼ無人地帯になっていた。
これが時の流れというべきか。
誰も知らない、忘れられた更地に佇む一人の女性。
(…………不思議)
誘拐現場に足を運ばせても
不思議と、心は落ち着いていて起きなかった。
あれだけ言葉に出来ない、
苦しみを生んだ始まりの場所だったというのに。
今の和歌は何とも言えない無情に晒されている。
(………今は此処に立っていても、何とも思わない)
(………あれだけ怖かった筈なのに)
驚かないのは多少なりとも、時が経過したせいか。
それとも自分自身の心構えと、心の整理が着きつつあるせいか。
それとも、あれから益々、心が、凍り付いたせいか。
もしも昔の自分自身が
今、此処に居たら、平常心を保てなかっただろう。
きっと真っ直ぐに立つことも起きる事も出来ず、
現場を直視出来ずに目を閉じて耳を塞ぎ込み、
まともに呼吸する事も出来ないに違いない。
9年という月日を、和歌は苦しみと表す。
あれからずっと、過去に囚われ塞ぎ込んでいた。
まるで刃物で抉られた様に、あの忌まわしい記憶は
純真で純粋無垢な少女の心に大きな傷痕を残した。
“誘拐される前の水瀬和歌”と、
“今の水瀬和歌”を切り捨て生きるようになってから、
自分自身の事を誘拐される前の彼女は、死したと思い込むようになった。
割り切れるようになった反面、
自分自身が分からなくなってしまい今まで何を考えて生きてきたのか。
その境界線が曖昧なままだ。
12歳だったあの日以降の記憶は、とても曖昧さを帯びている。
今の和歌に残っているのは、
思い出すだけで背筋がざわめく忌まわしい、悪夢のような日々。
形のない悪魔に追い掛けられ、足枷に繋がれ、
苦しみ、辛さを経験した記憶しかない。
誘拐から救出された後に再び、
水瀬家は再び母親の仕事の都合で忌まわしき町から引っ越す事になった。
もともとあの日は、日本に一時帰国していて
その最中に起こった刹那的な悲劇だったのだ。
母親は今でも帰国しなかったら
和歌に辛い思いをさせる事もなかった悔恨を述べる。
虚空の瞳で町を見続けていると、嫌でも脳裏に苦い記憶が霞む。
今までの事は無かったように、
このまま町に留まったままでいたら
あの記憶に根付いたが起きてしまうのではないか。
それを避ける為に足早に、踵を返した。
和歌にとってはこの町にいる事は苦痛の象徴なのだ。
心機一転、もう生きる場所も環境も変えてしまおう。
幸い、都市開発が進んでいる故に当時の町並みは消え失せてしまっていた。
(もうあの町並みは、消えた)
穏やかな地方から、都心部の近い県へ。
きっと引っ越しをすれば、和歌が誘拐された事も、
そうすれば廉の母親が犯した大罪の事も明らかになる事はないだろう。
(そろそろ私は、“私”に戻りたい)
心の片隅に潜んでいた叫び。
こんな苦しみから囚われる前の自分自身に。
誰も知らない町で、心療的な治療を行っていたあの日々を思う。
心療内科の主治医である遠藤、母親、廉の協力の元、
和歌は全てを棄てる覚悟で治療に励んでいた。
________大学キャンパス。
「和歌は、彼氏とかはいないの?」
唐突な美岬の一言に、和歌は固まった。
美岬は悪気など一つもない、純粋な瞳と疑問を此方に向けている。
周りは年頃でキャンパスライフだと言わんばかりに、
色恋沙汰や、彼氏彼女として人生を謳歌している。
羨ましいとも思えないのは過去の足枷のせいだろうか。
和歌にとっては、反面、“怖いもの知らず”と思うのだ。
あんなに簡単に他人を信用して、安心しきって
笑顔を見せている。
いつどちらかが、豹変して裏切るかもしれないのに。
自身が誘拐され、6年の月日を
心療治療を行っていた事は誰も知らない。
孤独を好み、外界を拒絶して引きこもり塞ぎ込んでいた。
あれから深い傷痕を負ったというもの、
海外の心療治療を行ってきた時は
人に対して、外界に対して恐怖心を抱いていたから、
対人関係などは成立出来なかった。
幼い頃から母親と二人三脚で歩んできた影響もあって、
和歌は男性慣れしていない。
それに誘拐された時に和歌に声をかけ、拐った人間は男性だ。
当然、異性には良い感情は抱いていない。
せいぜい、異性と付き合いがあるのは廉くらいか。
しかし幼い頃からの廉は幼馴染で顔馴染み、
従兄で、幼い頃から一緒に育った影響もあり、
異性とは認識していも、あまり自覚は有無なのも事実。
廉は程よい距離感を大切にする人柄だ。
義理堅く真面目な人柄には恩もある。
それは長い付き合いを経て、築き上げた信頼関係を
誰にも言うつもりもない。
「いないわ」
「そうなの? 意外ね」
少し悟った表情を浮かべながら、
和歌は目を伏せ気味に呟いた。
孤独だけを愛し、周りを避け生きている和歌にとって
あまり土足で踏み入れられたくない領域だ。
それを聞いた美岬は
内心意外な気持ちになりながら、驚いていた。
化粧っ気一つもない素朴な女性だが、
近付けば驚くほどに端正に、大人びて顔立ちは整っている。
その自然美が彼女の透明感のある美貌を引き立たせていた。
華奢なスタイル。
人目を惹く、非の打ち所のない、
物静かで慎ましやかで清楚な美人。
秘かに、この学部の男子には、
水瀬和歌に惹かれ、恋心を抱いている人間が何人もいる。
噂話で何人か告白した勇者もいたらしいけれど、
彼女の答えは全てNOだったらしい。
(本当に、この子は純粋無垢なのね)
つまらなそうに指先で
カールした毛先をくるくると回しながら、美岬はそう思った。
男性を取っ替え引っ替えしながら生きる、ふしだらな自分自身と、何もかも違う。
和歌は、真面目に実直に、純粋に生きている。
何色にも染まらず堂々とした姿で歩んでいる凛然とした彼女を
それを思うだけで、美岬は眩しかった。
(お母さんには、悪いけれど)
自分自身は恋愛も、結婚もしない。子供も生まないだろう。
和歌にとって世界の人達は怖い人ばかり。恐怖の象徴だ。
もう他者とは誰にも関わりたくない。
もう二度とあんな悪夢を経験したくない。
(きっと、私は誰かを愛する事もないし、愛せない)
そう自負しながら
悟った心情で、和歌は思った。
孤独の中だけで生きると決めた今、
外界と、人との繋がり接触を図る機会なんてないだろう。
慎ましやかに誰にも気付かれず、ひっそりと
この平穏の日常に埋もれて生きれば生きれば良いのだ。
それが、今の水瀬和歌の細やかな願いだ。




