第87話 中川恵のメイドデビュー
望美と語り合った数日後。 屋敷は静まり返っていた。
養父も屋敷を離れ、怜子と千早も旅行に行ったからだ。
ーー静かだ。 異様な程にな。 嫌な予感がする。
あの日、望美が言ってたな。
『人手が足りないので、対策を講じました』と。
書斎で書類を捌いていると、控えめなノックの音がした。
「入れ」
「し、失礼します! ご主人様!」
「……! 中川!」
俺は、顔を上げたまま固まった。 そこに立っていたのは、メイド服姿の中川だった。
黒のワンピースに、白いエプロン。 フリルのブリム。 三つ編みには黒いリボンが結ばれ、白いタイツに黒い靴。
完璧だ、メイドだ。 顔は、茹で蛸のように真っ赤で、目は輝いているがーー
「きょ、今日からお世話になります! 中川恵です! ご主人様、よろしくお願いします! 萌え萌えキュンキュン!」
「……」
ーー気まずい沈黙が流れた。
「あ、あの、ご主人様?」
「……その呼び方は、やめてくれ」
「え? で、でも、メイドさんはご主人様って呼ぶんですよね!? 勉強してきました!」
「何で勉強したんだ」
「小説です!」
ーーそうか。
俺は、額に手を当てた。 中川の背後に視線を向けた。
望美がいた。 サングラス。 マスク。 サンバイザー。
完全防備の不審者メイドが、廊下の暗がりに立っていた。
「……望美」
「あ! そうです、こちらの方の名前、望美さんなんです!」
中川が、ぱっと振り返った。
「偶然って、すごいですよね! あの、小川さんと同じ漢字なんですよ!」
ーー嘘だ。 まだ、気づいていないだと?
俺は、望美を見た。 望美は、微動だにしない。
ーーこいつは、学校の人気者だ。 中川と同じクラスの、小川望美として。
その顔を、中川は毎日見ているはずだ。
いや、待て。 ーー気づく方が、無理か?
隠キャの男子高校生の家に、クラスの人気者がメイドとして働いている訳がない。
「この、新人メイドは、この私がしっかりと教育いたします」
ーーサングラスとマスクで表情が見えないが、笑ってるな?
頼むから、俺を巻き込んでくれるなよ?




