第80話 気まずい車移動
翌日、正午。 黒塗りのリムジンが、街道を滑るように走っていた。
ーー気まずい。 車内は、静かだった。 ーーパシャ。
控えめに言って、地獄だ。 俺は、膝の上で拳を握ったまま、視線を落としていた。
客人を家畜小屋に泊めかけ。 泥だらけの女二人を風呂場に押し込み。 その脱衣室に、自分から突入し。
そして、悲鳴を上げて飛び出したところを、養父に目撃された。
『さっきから騒がしいと思えば……もういい』
ーーもういい。
あの「もういい」が、脳内で二十四時間再生され続けている。 叱責ですらない。 諦めだ。 人間、諦められる方が堪える。
俺は自分が、惨めで仕方なかった。 ーーパシャ。
ーーそもそも今日は、養父の誕生日だ。
鵠沼玄一郎、七十歳。 毎年この時期に、関係各所を招いた祝賀会が開かれる。 養父がわざわざ屋敷へ戻ってきたのも、この日のためだ。
当主の還暦以降の節目は、鵠沼家にとって重要な行事である。 後継者たる俺は、その場で恥ずかしくない立ち居振る舞いを求められる。
ーーその前夜に。 俺は、変態行為を行ったんだ。
「……」
顔を上げられない。 自分の駄目さに腹が立つ。
ーーパシャシャシャシャシャシャシャ。
さっきからなんの音だ? 望美?
今日も彼女は、メイド服だ。 なんでやねん。
いかん、動揺でメイドの口調が俺にうつってしまった。
俺は、ちらりと横を見た。 すると望美は、背筋を伸ばして、正面を見据えていた。 完璧な姿勢。 完璧な無表情。
ーーだが。 膝の上で、指が細かく震えている。 緊張しているのか。
当然だ。 鵠沼家の祝賀会だ。 政財界の人間が集まるのだからな! 俺は、小声で話しかけた。
「おい、望美」
「……はい」
「なぜ、メイド服姿なんだよ」
「……はい」
「いや、はい。 じゃなくてさ!」
「……灯磨、静かにすることすらできんのか?」
「し、失礼いたしました……」
「ふん」
俺は、養父にまた叱られた。 ーーパシャリ。
「灯磨」
「はい」
養父が、窓の外を見たまま俺に言った。
「今日は、花山院家も来る」
「……そうですか。 かしこまりました」
「私は、お前に何も強制しない。 これまでも、これからもだ」
「……」
「ただし。 逃げることだけは、許さん」
「…………はい」
俺は、頭を下げた。 ーー逃げるな。
隣を見る。 望美は、正面を向いたまま、微動だにしなかった。
「……望美」
「……はい」
「安心しろ」
俺は、声を落として言った。
「お前は俺のモノだ……」
「灯磨……」
望美が、こちらを向いた。
「今日は、俺の後ろにいろ。 絶対に離れるな」
望美は、俺の顔を見つめていた。 それから、視線を落として、小さく頷いた。
「……はい、かしこまりました」
ーー窓の外を、街並みが流れていく。 やがて、車寄せへと滑り込んだ。
ホテルの正面玄関。 赤い絨毯。 整列した従業員。 次々と到着する黒塗りの車列。
扉が開く。 夏の日差しが、車内に差し込んだ。
ーー鵠沼玄一郎、七十歳の誕生祝賀会が、始まろうとしていた。




