第35話 望美の裏工作ーー望美視点
厨房に、コポコポと不穏な音が響いていた。
「ふふっゴホゴホ……ふふふ」
私は、コーヒーサーバーを見つめながら笑った。
豆の量、通常の三倍。 抽出時間、二倍。 仕上げに、追い豆。
名付けて、濃さ三〇〇%ーー『悪魔のコーヒー』。
眠気も、寿命も、そして恋心も削る一杯である。
「お嬢様? コーヒーの分量が違いますよ?」
「ふぇ?」
背後から怜子が覗き込んできた。 まったく、気配がしなかったわ。
「……えっと。 そうだ! 中川さんは、濃いのが好きなんです!」
「そうでしたか。 さすが、お嬢様」
私の回答に、怜子は納得が行ったらしい。 怜子と千早は親子揃って騙しやすくて助かるわ。
気づけば、サーバーの中身がさらに黒みを増していた。 もはや液体というより、何かの呪いに近いわね。
私は満面の笑みで、盆にカップを二つ載せた。 一つは灯磨用の、普通の。 もう一つは、お客様用の、呪ーー特別なの。
サングラスを掛け直す。 マスクの位置を整える。 サンバイザー、よし。
応接間の扉を開ける。 ソファに座る中川さんと、その向かいの灯磨。 二人が同時にこちらを見た。
「……失礼いたします。 コーヒーをお持ちしました」
ーーあれ?
盆の上の、同じ絵柄のカップが二つ。
どっちが濃いコーヒーだったかしら?
◇◇◇
私がコーヒーを出し終わった後。 厨房に戻ると、ちょうど勝手口の扉が開いた。
「ただいま戻りました……奥様」
「おかえり千早!」
オーバーオールの裾をまくった私服姿で、白いレジ袋を両手で掲げている。 今日はお使いを頼んでいたのだ。
「……はい。 言われたもの、買ってきました」
千早がレジ袋を差し出す。 中には、パックの刺身の盛り合わせ。 値引きシールこそないが、堂々のスーパー印。 『お刺身盛り合わせ ¥1,280』のラベルが眩しい。
ーーいいわね、完璧だわ。
「千早、偉いわ!」
「ありがとうございます」
私が撫でると、千早は無表情のまま、ほんの少しだけ胸を張った。
「……でも、望美さん」
「なにかしら?」
「莉央さんがいるのに……お刺身、買ってくる意味、あるんですか? しかも、今日は……」
ーーうっ。 純粋な瞳が痛いわね。
「だからよ! 美味しいでしょ? お刺身の盛り合わせ」
「そうですね」
「中川さんには、安定安心の味を提供しようと思うの!」
「……勉強に、なります」
素直に頷く千早。 ごめんなさい。 あなたの教育に、確実に悪いことをしている自覚はあるの。
ーーでも、仕方ないじゃない。
「望美さん、それ、お皿に移しますか?」
「いいえ。 パックのまま出すわ」
「え?」
千早の声が、初めて裏返った。 無表情が崩れて、目が真ん丸になっている。
「奥様……パックのままは、さすがに……」
「ふふ。 甘いわね、千早。 パックのままだからこそ、伝わるものがあるのよ」
「つたわる、もの……」
ーーそう。 私が貴方を歓迎してないってのがね。




