文化祭③ 愛のファッションコーディネートin文化祭
送信ボタンを押してから、数秒。
画面に既読がついた。
『じゃあ、十二時半に中庭の時計台前で待ってますね!』
続けて、ぺこりと頭を下げる猫のスタンプが送られてくる。
『分かりました、楽しみにしてます』
そう返し、スマホをポケットへしまう。
間もなくトイレから江蜜が戻り、俺たちは受付の仕事を始めた。
文化祭が始まると、校門には次々と来場者が訪れた。
最初のうちは、来場者が途切れることなく校門をくぐってきた。
「いらっしゃいませ。こちら、文化祭のパンフレットです」
「体育館へは、この道を真っ直ぐ進んで右ですね」
「お手洗いは校舎へ入ってすぐのところにありますよ」
パンフレットを渡し、校内を案内し、分からないことがあれば江蜜と二人でマニュアルを確認する。
慣れないうちは何度か言葉に詰まったが、一時間も経つ頃には、それなりに淀みなく対応できるようになっていた。
途中、江蜜が客にパンフレットを渡そうとしたとき、俺も同時に手を伸ばしてしまう。
「あ」
机の上で、指先が触れ合った。
江蜜は一瞬目を丸くし、すぐに頬を緩める。
「もう、翔気くんったら、今は仕事中ですよ?」
そう言って身体をくねらせる。
「じ、事故だよ」
「私はいつでも歓迎ですよ」
「ほら、次の人来てるから」
そんなやり取りを挟みながら、受付の仕事を続けた。
それからさらに一時間ほどが経った頃。
来場者の波が途切れ、受付にもようやく落ち着いた時間が訪れた。
「ふぅ……ようやく一段落ですね」
江蜜が椅子の背もたれへ身体を預ける。
「結構来たな」
「翔気くんと二人だったので、二時間なんて一瞬でしたけどね」
「そうだね」
苦笑しながら時計を見る。
時刻は十一時五十分。
友一との待ち合わせまでは、あと四十分。
着替えとメイクにかかる時間を考えれば、そろそろ動かなければ間に合わない。
受付の交代時間には少し早いが、次を担当する文実の生徒たちは、すでに校門近くで待機していた。
「江蜜、ちょっといい?」
「はい?」
「悪いんだけど、俺、少し早めに上がってもいい?」
江蜜の眉が、分かりやすく下がる。
「次の担当の人ももう来てるし、江蜜もこのあと荷物運びがあるでしょ?早めに終わった方がいいんじゃない?」
「ありますけど……私、仕事が終わる頃には文化祭も終わっちゃいますから、今日はもう翔気くんと二人でいられないんですよ。仕事中は最後まで一緒にいたいです」
江蜜は納得していない様子で頬を膨らませた。
「本当に、いま行かなきゃ駄目ですか?」
「ごめん」
「私より大事な用事なんですか?」
「そういうわけじゃ……」
答えに詰まる。
江蜜はじっと俺を見つめたあと、すでに待機している次の担当者たちへ視線を向けた。
しばらく唇を尖らせたまま、何かを考え込む。
「……分かりました」
「いいの?」
「ここで無理に引き止めて、面倒くさい彼女だと思われたくありませんから……でもその代わり、今夜の通話は一時間延長してください」
「そのくらいなら、もちろん」
「それと、行く前に十秒だけ翔気くん成分を補給させてください」
「翔気くん成分?」
江蜜は有無を言わさず俺の手を取り、指を絡める。
繋がれた手へ、ぎゅっと力が込められた。
江蜜はきっちり十秒数えてから、名残惜しそうに俺の手を離した。
俺は次の担当者へ声を掛け、少し早めに受付を交代してもらった。
腕章を外して鞄へ入れる。
「それじゃ行ってくる」
「はい。他の女の子に目移りしちゃ嫌ですよ?」
「……しないよ」
反射的に答え、俺は大きな紙袋を抱えて校舎へ向かった。
○
文化祭が始まった校舎内は、朝とはまるで別の場所になっていた。
廊下には色紙や風船で作られた装飾が並び、教室の前では衣装を着た生徒たちが声を張り上げている。
「二年一組、焼きそば販売中でーす!」
「お化け屋敷、待ち時間十分で入れます!」
来場者の笑い声。
屋台から漂ってくる甘い匂い。
どこかの教室から聞こえるバンドの演奏。
そんな人混みの中を、俺は大きな紙袋を抱えて足早に進んでいた。
紙袋の中には、朝、愛に言われて思い出し、持ってきた服とウィッグ、化粧道具が入っている。
正直、使うかどうかは曖昧だったが、持ってきたのは正解だったようだ。
金曜日に愛から一人でも最低限のメイクができるよう教えてもらっていた。
正直、うまくできる自信はない。
だが、これ以上愛と浮気のために関わるのは憚られた。
俺は人の少ない校舎裏側の階段を上り、三階の男子トイレへ向かった。
文化祭中とはいえ、ここなら来場者も少ない。
個室で着替え、洗面台の鏡を使ってメイクをすれば——。
「翔気?」
「……っ!」
男子トイレへ入ろうとしたところで、背後から名前を呼ばれた。
聞き覚えのある声に、肩が跳ねる。
恐る恐る振り返る。
廊下の少し先に、愛が立っていた。
今日は文化祭だからか、制服を少し改造し、髪にはキラキラしたラメをちらして、片手には、小さな黒いバッグを提げていた。
「愛ちゃん……」
「何してんの?」
愛の視線が、俺の顔から、抱えている紙袋へ移る。
数秒の沈黙。
やがて何かを察したらしく、眉間へ深い皺を寄せた。
「まさか、そこで着替えるつもり?」
「……そのつもりだけど」
「はぁ?」
心底信じられないものを見るような目を向けられる。
「男子トイレで着替えて、そのままそこで化粧するってこと?」
「一応」
「あほなの?」
「そこまで言う?」
「あのね、文化祭中なんだから誰が入ってくるか分かんないでしょ。一応うちの学校はメイク禁止なんだから、メイク道具広げてるのバレたら面倒なことになるわよ?」
「確かに……」
「そこまで考えてなかったの?」
「急いでたから」
「もう……こっち来て」
愛は呆れたようにため息をつくと、俺の腕を掴んだ。
「え、どこ行くの?」
「準備室。今日使わないって先生が言ってたから、あそこなら誰も来ないでしょ」
俺の返事を待たず、愛は廊下を歩き始める。
掴まれた腕から伝わる体温を感じながら、その背中を追いかけた。
○
連れてこられたのは、特別教室棟の隅にある小さな準備室だった。
室内には、使われていない机や椅子、段ボール箱が積まれている。
愛は中へ誰もいないことを確認すると、俺を押し込み、自分も入って扉を閉めた。
愛は俺が持っていた紙袋を奪い、中身を机の上へ並べていく。
レザージャケット、プリントTシャツ、赤と黒のチェック柄スカート、黒いウィッグ。
以前に借りていたものが一つずつ机へ置かれる。
その横へ、愛は自分が持っていた黒いバッグを置いた。
「そうだ。今日、新しいのも持ってきたんだよね」
「新しいの?」
「これも似合ってたけど、昨日もう少しアンタに合いそうなの見つけたんだよね」
バッグのファスナーを開き、中から服を取り出す。
「……え」
思わず声が漏れた。
最初に出てきたのは、肩が大きく開いた黒いトップスだった。
続いて、以前のものより丈の短い赤黒のプリーツスカート。
さらに網目の細かなタイツと、銀色の細いチョーカーまで並べられる。
「待って。これ着るの?」
「絶対こっちの方が似合う」
「なんか露出増えてない?」
トップスを持ち上げる。
肩だけでなく鎖骨の辺りまで見える作りになっている。
スカートも短い。少し屈んだだけで、いろいろ危険なことになりそうだ。
「安心しなよ。下に見せパン穿かせるから」
「安心していいのかな、それ」
「大丈夫だって。別に下品な感じにはしないから」
愛は俺の身体へ服を重ね、出来上がりを想像するように目を細める。
「前はカイナ?だっけ、に寄せることばっか考えてたけど、アンタは脚が細いから、こっちの方が絶対映えると思うんだよね」
「脚を映えさせる必要ある?」
「ある」
「即答……」
「見せた方が綺麗なところは、ちゃんと見せるの」
そう語る愛の目は熱を帯びていた。
部屋で服を選んでくれた時と同じ目。好きなものへ向き合っている時の、楽しそうな目だった。
「じゃ、アタシ廊下見てるから着替えて。終わったら呼んで」
「……分かった」
愛が部屋から出ていく。
俺は改めて、机へ並べられた服を見た。
「これ、本当に着るのか……」
友一と会うためとはいえ、昨日よりさらに後戻りできない場所へ来ている気がした。
○
「……うん。やっぱりこっちの方がいい」
着替えとメイクを終えた俺を見て、愛は満足そうに頷いた。
鏡の中には、昨日とは少し違うショウコが立っていた。
肩の出た黒いトップスへ、短めのプリーツスカート。
腰には細いチェーンが垂れ、脚は黒いタイツと厚底ブーツで覆われている。
上からレザージャケットを羽織っているため、立っているだけなら露出はそこまで多く見えない。
だが、少し動くだけでジャケットの隙間から肩や鎖骨が覗く。
スカートも、鏡越しに見ているだけで落ち着かないほど短かった。
「……際どくない?」
「これくらい普通だって」
「本当に?」
「アンタが気にしすぎなの。ほら、顔上げて」
愛が俺の顎へ指を添える。
顔を上げると、すぐ目の前に愛の顔があった。
細い筆で目元へ最後の仕上げとして線を引いていく。
「動かないでよ。失敗するから」
愛の指先が、頬へ触れる。
真剣な表情。
長い睫毛。
触れたところから伝わる、指の温度。
距離が近いせいか、愛が使っている香水の匂いまで分かった。
「……何?」
「いや」
「さっきからじろじろ見てるけど」
「愛ちゃんって、やっぱり服とかメイクしてる時、楽しそうだなと思って」
愛の手が止まった。
「……そう?」
「うん」
俺が頷くと、愛は少しだけ視線を逸らした。
「まあ……好きだから」
「そっか」
「それに」
愛は再び俺へ向き直る。
今度は唇へ薄く色を乗せながら、小さく続けた。
「翔気に似合う服、選ぶのは……結構楽しいし」
「……ありがとう」
「別に。アタシがやりたくてやってるだけ」
素っ気ない口調だった。
けれど、褐色の頬がわずかに赤くなっている。
「よし、終わり」
愛が一歩後ろへ下がる。
鏡の中の俺を上から下まで確認し、満足そうに笑った。
その笑顔に釣られて俺もはにかむ。
「本当にありがとう。朝も服のこと気にしてくれてたし、今日もわざわざ持ってきてくれて」
「……ん」
愛は照れくさそうに、机へ散らばった化粧道具を片づけ始めた。
俺も手伝おうとした、その時。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見る。
『時計台の前に着きました』
友一からだった。
待ち合わせまでは、あと十分。
「……そろそろ行かないと」
「行くって、どこに?」
「あ」
顔を上げる。
愛が不思議そうにこちらを見ていた。
「いや、その……文実の仕事」
「文実もその格好でするの?」
「えっと……文化祭だし、女装したままでも平気かなって」
「ふうん」
愛はどこか納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
化粧道具をバッグへ戻し、ファスナーを閉じる。
それから、何でもないことのように言った。
「じゃあ、その仕事終わったら一緒に回ろ」
「……え?」
「せっかく文化祭なんだし」
愛は机へ腰を預け、腕を後ろへ回す。
こちらの反応を窺うように、少しだけ上目遣いで見つめてくる。
「アンタ、最近忙しいとか言って、あんまデートしてくれないじゃん」
「いや、それは……」
友一とのことがあり、最近は愛とも昼飯を一緒に食べたりするくらいだった。
「今日くらいいいでしょ?アタシ、行きたいところ結構あるんだよね」
愛は制服のポケットから、折り畳まれた文化祭のパンフレットを取り出した。
開かれた紙面には、いくつもの出し物へ赤い丸がつけられている。
「二年のカジノと、屋台のクレープと、体育館のライブ。それから——」
「結構計画立ててるね」
「べ、別に計画ってほどじゃないし。暇だったから、ちょっと見てただけ」
愛は慌てて、パンフレットを胸元へ引っ込めた。
それでも、期待を隠しきれない目で俺を見つめていた。
きっと、今日を楽しみにしていたのだ。
「……」
スマホを握る手へ力が入る。
友一は、もう時計台の前で俺を待っている。
「ごめん」
口から出た言葉に、愛の指が止まった。
「今日は、ちょっと無理かも」
「え……なんで?」
「文実の仕事があるから」
愛の表情が、わずかに曇る。
「午後にも、別の仕事が入ってて、今日はちょっと無理かもしれない」
また一つ、“仕方ない”嘘をついた。
愛は何も言わなかった。
ただ俺の顔を、じっと見つめている。
「……そうなんだ」
やがて愛は、小さく笑った。
「文実なら、しょうがないね」
「ごめん」
「別に謝らなくていいし。仕事なんでしょ?」
「ああ……うん」
「じゃあ、終わったら連絡して」
「分かった」
愛は残った化粧道具をバッグへ入れると、俺の横を通り過ぎた。
準備室の扉へ手を掛け、出ていった。
その背中はずいぶん寂しそうに見えた。
鏡には、愛が作ってくれたショウコが映っていた。
その姿で、俺はこれから別の相手へ会いに行く。
「……」
時計を見る。
待ち合わせの時間まで、あと五分。
「……行かないと」
誰もいない部屋で呟く。
レザージャケットの襟を整え、準備室の扉へ手を掛けた。
愛の残した香水の匂いをまとったまま。
俺は、友一の待つ場所へ向かった。




