文化祭② 麻酔
校門の前に建てられた仮設テントの下で、俺は文実の仕事の手順を確認していた。
十月とは思えない強い日差しが、白い天幕を透かして頭上をぼんやりと明るく染めている。
「……ぶつぶつ」
正門へ続く道には、受付開始前だというのに、すでにちらほらと来場者の姿があった。
小さな子供の手を引いて歩く保護者。校門前で記念写真を撮る中学生。道に迷ったらしく、パンフレットを広げて立ち止まっている老夫婦。
校舎の方からは、マイクを通した放送委員の声や、屋台の準備をする生徒たちの掛け声が聞こえてくる。
「……ぶつぶつ」
文化祭の開幕を目前にした、どこか浮き足立つような空気を感じながら、俺は机の上に置かれた受付用のマニュアルへ目を落とした。
今日の俺の仕事は文化祭の受付だ。
二人一組の交代制で、来場者へパンフレットを渡したり、校内の簡単な案内をしたりする。
「……ぶつぶつ」
対人の仕事なので多少の緊張はあるが、派手な仕事ではない。分からないことがあればマニュアルを確認するか、本部へ連絡すればいい。
だから、仕事そのものには特に問題はない。
問題があるとすれば——
「……ぶつぶつ」
さっきから不満オーラを漏らしながら、ぶつぶつと何かを呟き続けている江蜜だろう。
その横顔からは、話しかけないでくださいという空気と、どうして話しかけてくれないんですかという空気が同時に放たれていた。
器用なことをする。
「江蜜、どうかした?体調でも悪い?」
耐えかねて声をかける。
その瞬間、スマホをいじっていた江蜜の指が止まった。
ゆっくりとスマホを机へ置き、ぐりんと首だけをこちらへ向ける。
「翔気……くん」
「うん」
「最近、冷たいですよね」
「え?」
予想していなかった言葉に、思わず目を丸くする。
冷たい?俺が、江蜜に?
付き合ってから、江蜜とは毎日DMをしていた。朝起きれば「おはよう」と送り、学校から帰ればその日の出来事を話し、夜にはほとんど欠かさず通話している。
やり取りの中で突き放した覚えも、わざと無視した覚えもない。
むしろ、一日にこれだけ連絡を取っていて冷たいと言われるのなら、世の恋人たちはいったいどれほど会話を続けているのだろうというくらいだ。
「えっと……そんな冷たかったかな……?」
江蜜の眉が、わずかに下がった。
「土日……誘ったのに、デートしてくれなかったじゃないですか」
「……ああ」
「それだけで?」という言葉は胸のうちにしまっておく。
付き合う前から感じていたことだが、俺と江蜜では、恋人同士に求める距離が違うのだ。
俺は恋人なら最低でも週に一度は会いたいと思うが、江蜜は、おそらく最低でも週に七回は会いたいと思っている。
「ごめん。寂しい思いをさせる気はなかったんだけど……ちょっと忙しくて」
「……恋人は二十四時間三百六十五日、常に一緒にいるものなんですよ?」
江蜜が唇を尖らせる。
「それはもはや夫婦だよ」
いや、夫婦でも無理か。
食事も授業も風呂も睡眠も一緒ということになる。
恋人というより、ほとんど一つの生き物だ。
「それに」
江蜜がスマホを手に取った。
何度か画面を操作し、俺へ向ける。
「土日は、返信も遅かったですよね」
「……そうかな」
「そうです」
きっぱりと言い切られた。
画面には俺とのDMが表示されている。
江蜜のメッセージ。数十分後の俺の返事。また江蜜のメッセージ。その横には、送信時刻が一つずつ並んでいた。
「翔気くんの普段の平均返信時間は五分五十八秒です」
「平均?」
「なのに、土日の平均返信時間は四十六分二十二秒でした」
「……」
「会話中の平均返信時間も、普段は五秒なのに、土日は五十五秒です」
「江蜜は統計学者とか向いてると思う」
「茶化しても駄目ですよ」
「はい」
ぴしゃりと言われ、姿勢を正す。
……まずいな。
土日は、言わずもがな友一と会っていた。
友一との会話中に何度もスマホを確認するわけにはいかなかったため、返信が遅れた自覚はある。
だが、まさか秒単位で普段との差を把握されているとは思わなかった。
江蜜はスマホを胸元へ引き寄せる。
「最初は忙しいのかなって思ったんです。でも、ずっと返信が遅くて……通話の時も、なんだか疲れているみたいでしたし……それで、私と話すの、もう面倒くさくなったのかなって」
最後の言葉だけ、ひどく小さかった。
伏せられた目は、机の上の一点を見つめている。
パンフレットの端を、人差し指で何度もなぞっていた。
……もしかしたら、彼女の不満は、怒りから来たものではなかったのかもしれない。
江蜜は昔から人間関係に問題があったと言っていた。
仲良くなっても、いつか離れていく。自分は最後には捨てられる。そんな不安を、今も抱えているのかもしれない。
江蜜が確かめたかったのは、土日に会えなかった理由ではない。
俺がまだ自分を好きなのか。これからも隣にいるのか。
きっと、それだけだった。
「……」
確かに江蜜の不安は過剰かもしれない。
返信が一時間遅れただけで、普通はここまで怯えない。まして秒単位で統計まで取らない。
それでも、そんな江蜜を好きになり、彼氏になったのは俺だ。
それなら、彼氏として忙しくなると一言伝えるくらいはできた。少なくとも、何の説明もないまま普段と違う態度を取れば、江蜜が不安になることくらいは想像できたはずだ。
「ごめん、不安にさせて。土日は、ちょっと友達と遊んでたんだ」
「友達?」
江蜜がゆっくりと顔を上げる。
嘘ではない。
土曜日も日曜日も、俺は友一と会っていた。
ただし、翔気としてではなく、ショウコとして。
肝心な部分だけを隠した答えが、喉を通って江蜜へ届く。
「誰ですか?」
「早乙女だよ」
「……女友達ですか?」
「男だよ」
短く答える。
江蜜は数秒、俺の顔を見つめていた。
やがて張り詰めていた肩から力が抜ける。
「そう……いうことだったんですね」
ほっと息を吐く。
「よかったです。面倒くさがられてると思っちゃいました」
その顔に、ようやく笑みが戻った。
さっきまで指先一つにまで滲んでいた苛立ちが嘘のように消えている。
「江蜜とのやり取りを、面倒くさいなんて思ったことないよ?」
「……翔気くん」
虚ろだった江蜜の瞳に、光が宿る。
期待するような目で、俺を見つめている。
ここで曖昧に笑えば、また江蜜を不安にさせる。
そう思って、俺は正面から彼女の目を見た。
「大丈夫。俺はちゃんと江蜜のこと好きだから」
口にしてから、胸の奥が痛んだ。
その言葉は嘘ではない。
あの日、江蜜を好きだと認めてから、その気持ちが変わったことは一度もなかった。
今だって、安心してほしいと思っている。
笑っていてほしいと思っている。
それらの感情は本当のはずなのに……どこか嘘をついている気分だった。
「……えへへ」
江蜜は照れたように笑い、スマホを両手で握り締める。
「分かりました。せっかくの休日ですもんね。友達と遊んでたことくらい許してあげます」
「ありがとう」
「私、束縛のきつい彼女じゃないので」
「……そうだな?」
「なんで疑問形なんですか?」
江蜜は不満そうに頬を膨らませる。
それでも先ほどまでとは違い、その表情にはどこか余裕があった。
そうして、ひとまず江蜜を安心させたあとは、二人で文化祭のパンフレットを覗き込みながら、出し物について話して過ごした。
やがて江蜜が時計を確認し——
「あ、私、お手洗いに行ってきますね」
「うん」
「すぐ戻りますから」
「別にゆっくりでいいよ」
「駄目です。翔気くんを一人にしたくないので」
「ただのトイレでしょ」
思わず苦笑する。
江蜜は立ち上がってからも、どこか名残惜しそうに俺を見ていた。
数歩進んでは振り返り、目が合うと小さく手を振る。
俺もそのたびに手を振り返した。
ようやく江蜜の姿が校舎の中へ消える。
俺は一人になった受付で、小さく息を吐く。
それから周囲に文実の生徒がいないことを確かめ、受付用のパイプ椅子へ腰を下ろした。
机の下でスマホを取り出す。
画面を開くと、通知欄にはDiscordのアイコンが残っていた。
通知をタップする。
『もし時間があったら、文化祭一緒に回りませんか?』
三十分ほど前に友一から届いていたメッセージだった。
——誘われた。
友一が、ショウコと一緒に文化祭を回りたいと思ってくれた。
承諾すれば、今日もショウコにならなければならない。しかも今日は学校だ。昨日よりも正体が露見する危険は、ずっと高い。
だが、せっかく友一から誘ってくれたのに、断ってしまうのも……。
俺は文字入力欄を開いた。
『お誘いいただきありがとうございます』
そこまで打って、手が止まる。
続けて『ぜひご一緒したいです』と書くのか。それとも『ですが今日は』と断るのか。
どちらへも進める卑怯な書き出しだった。
しばらくして消した。
何もなくなった入力欄を眺める。
書いては消し、消しては書く。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、数分が既に経過していた。
スマホを置き、目を手で覆う。
瞼の裏には友一の純粋な笑顔が浮かんでいた。
あいつはショウコに恋愛感情を抱いている。
そう仕向けたのは俺で、こうなることも望んでいたはずなのに……いざ現実になると、どうしようもない自己嫌悪に陥ってしまう。
きっとそれは俺がショウコとしてあいつを騙しているからだろう。
純粋で優しいあいつの恋情を弄んでいるという自覚があるからだろう。
これ以上ショウコとしてあいつの誘いを受け続けるのかどうか。早く決めなければならない、そう分かっているのに、決められなかった。
そのとき
ピコン。
伏せたスマホが机の上で短く鳴った。再びスマホを手に取り、画面を確認する。
今度はLINEだった。
そして、そこに表示された差出人の名前を見た瞬間、時間が止まった。
【風前灯子】
「……え」
声が漏れた。
灯子から連絡が来るのは、いったい何週間ぶりだろうか。
震える指でトーク画面を開く。
『久しぶり、翔気くん。この前はお見舞いに来てくれたんだってね。検査中ですぐ帰ってもらうことになっちゃってごめんね。でも検査も一通り終わったから、明日には面会できると思うよ』
何度も文章を読み返す。
灯子が打った文字だ。
誰かから聞かされた容体ではない。教師や医者を通した言葉でもない。
灯子自身が、俺へ送ってくれたメッセージだった。
画面に並ぶいつも通りの柔らかな言葉を見ているうちに、灯子の優しい表情が頭に浮かんだ。
胸の奥へ、安堵と痛みが同時に込み上げる。
少なくとも、明日会える。もう一度、灯子と話せる。
それが嬉しくて、気づけばすぐに返事を打っていた。
『よかった。じゃあ明日、学校が終わったらお見舞いに行くよ』
送信すると、間を置かずに既読がついた。
『ごめん、催促したみたいになっちゃったかな』
灯子らしい言葉だった。
自分が大変な状態にあるのに、俺へ迷惑をかけたのではないかと気にしている。
『いや、大丈夫、俺もお見舞い行きたかったから』
迷わず送る。
彼女に会いたい、もう一度話したい、必ず助けたい。
そのために、俺はショウコになったのだ。
——そうだ、俺は友一の恋心を弄びたいわけではない。傷つけたいわけでもない。
ただ灯子を救うために、必要なことをしているだけだ。
友一だけじゃない。愛も、江蜜も同じだ。灯子を助けるためには仕方ないことなんだ。
……それに、女装も浮気もバレて困るなら最後まで隠し通せばいい。
愛には愛を好きな俺で、江蜜には江蜜を好きな俺でいればいい。友一の前では、ショウコとして大切にすればいい。
三人は何も知らず、笑っていられる。俺は恋愛エネルギーを得られ、灯子は助かる。
誰も不幸にならない。
——なら、何を迷う必要がある?
そう考えた途端、先ほどまで胸にまとわりついていた重苦しさが、急速に薄れていった。
息が……しやすくなった。
画面を切り替え、再びDiscordを開く。
『もし時間があったら、文化祭一緒に回りませんか?』
もう一度メッセージを読む。
友一の恥ずかしそうな顔が浮かび、胸の奥がわずかに痛んだ。
だが、その上へ灯子の笑顔を重ねる。
たったそれだけで、痛みは気にならなくなった。
入力欄をタップする。
『はい、ぜひ!どこで待ち合わせますか?』
今度は迷わず、送信ボタンを押した。




