文化祭① 文化祭の朝
◯19日目(月曜日)
文化祭当日の朝。
俺は朝食のハムエッグトーストをかじりながら、ぼけーっとテレビを眺めていた。
液晶画面では朝のニュースが流れている。どこかの動物園で赤ちゃんが生まれただの、今日は十月とは思えない暑さになるだの、女性アナウンサーが朗らかな声で伝えていた。
けれど、内容はまるで頭に入ってこない。
——ボクって、漫画家になりたいんですか?——
「……」
俺は、昨日ちゃんと答えられただろうか。
真剣に答えたつもりではある。
けれど、あんなふうに他人の気持ちを勝手に推測して、余計なことを言ってしまったんじゃないか。
まあ、女装して浮気してるくせに今更何を気にしているんだ……って感じではあるが……。
それでも……不快に思われていたら、とか変なこと言っていたら、とか不安になってしまう。
そんなことを考えていると、
ピコン。
テーブルに置いていたスマホが鳴った。
画面を見る。
『愛』
表示された名前に、何となく口元が緩んだ。
『おは』
続けてもう一件。
『今日文化祭で着る服大丈夫?なんかキツいとか、1人じゃメイクできないとかある?』
「…………」
そのLINEを見た瞬間、すーっと血の気が引いていった。
まずい……そうだった、愛には文化祭でも女装すると言っていた。完全に忘れていた。
昨日は校外だったからまだよかったが、今日は学校だ。
クラスメイトもいる。教師もいる。他クラスにも俺の顔を知っている奴はいる。
誰かに正体を見抜かれて、その話が友一の耳にでも入ったら——
背中に嫌な汗が浮かぶ。
いや、でもだからといって今さら「やっぱり女装しません」と愛に言うのも気まずい。
服を選んでもらって、メイクまで教えてもらって。
あれだけ協力してもらったのに。
「……どう……すっかなあ」
俺は残ったトーストを口へ放り込みながら、深くため息をついた。
○
校舎には、いつもより少し早い時間から生徒たちの姿があった。
けれど、普段のような騒がしさはない。
廊下を行き交う生徒たちは、皆どこか声を潜めていた。
壁に貼った装飾の端を指で押さえる男子生徒。教室の入口に立てた看板の傾きを、少し離れた場所から確かめる女生徒。机の位置を数センチだけ動かし、もう一度全体を見渡す教師。
大きな作業は、もうほとんど終わっている。だからこそ、残っている細かな違和感が気になるのだろう。
そんな妙な緊張感と静かな興奮が漂う空気の中を抜け、俺は自分の教室のドアを開けた。
「——あ、翔気」
入ると同時に友一が俺に向かって手を振ってきた。
「おはよー」
「おー、おはよ」
軽く手を挙げながら友一の席の近くに向かう。
「なんか雰囲気がものものしくないか?」
「文化祭でみんな緊張してるんだよ。頑張ったしね」
「そういうこと?俺はあんまりクラスの方は手伝えなかったからなあ」
「そういえば、翔気は文実だったよね?やっぱり今日忙しいの?」
「今日は最初に受付やったら自由だよ。どっちかっていうと忙しかったのは事前準備だな」
「じゃあ昨日とか大変だったんだ?前日だし」
「……おうすげぇ忙しかったぞ……?」
「ボクは昨日はのんきに漫画展行ってたなあ。」
「……どうだったんだ?」
「めちゃくちゃ良かったよ!『顎髭』の展示とかコラボカフェとかあってちょー楽しかった!」
「……そ、そうなのか、よかったな」
知っている。その隣には、ずっと俺がいた。
けれど、当然そんなことは言えない。
「うん!ほら、翔気にもお土産とか買ってきたんだよ!」
「え、そんなの買ってたのか?」
昨日、物販でずいぶん大量に買っているとは思っていたが、まさか、その中に俺への土産まで混ざっていたとは。
友一は俺の反応が気に入ったのか、少し得意げな顔で紙袋を漁り始める。
「せっかくの漫画展だからね、行けなかった翔気にもお裾分けしてあげないと」
「まじか、ありがとう」
机の上へ、『顎髭』のアクリルキーホルダーや缶バッジ、限定のクリアファイルが次々と並べられていく。
「こんなに買ってたのか」
「自分用のついでだけどね」
目の前のグッズを見つめる。
一昨日、俺は友一との約束を一方的に断った。
昨日はショウコとして一日中そばにいて、友一を騙した。
なのに友一は、物販を回りながら、来られなかった俺のことまで考えてくれていた。
胸の奥が鈍く痛む。
「翔気?どうかした?」
「あ、いや……本当に嬉しいなって」
「そんな大げさな」
友一は照れくさそうに笑う。
「翔気って、好きなキャラとかいないタイプじゃん。だからこの際推し作ってもらおうと思ってさ!どれがいい?」
「まあ確かに漫画とかアニメにそういうのはいないが……」
「推しがいないのは損だよ〜。推しは世界を変えてくれるんだから!」
友一は鼻息を荒くして力説する。
「ほら、メレーナとかどう?翔気好きそうじゃない?」
「そうか?」
「それとも主人公かな。最新刊じゃ結構カッコよかったし」
友一は机に並んだアクリルキーホルダーを一つずつ手に取っていく。
「それとも——」
不意に、その手が止まった。
「……?」
見ると、友一の手には鼬重カイナのアクリルキーホルダーが握られていた。
「……友一?」
「…………」
「おーい」
「えっ」
友一がびくっと肩を揺らす。
「あ、ご、ごめん」
「どうかしたか?」
「な、なんでもない……なんでもないよ?」
慌てて否定しながらも、カイナのアクリルキーホルダーだけは手放そうとしない。
「……そうか?」
「う、うん。それより、ほら。翔気も選んで?」
誤魔化すように、残りのグッズを俺の前へ押し出した。
引っかかりを覚えながらも、机へ視線を落とす。
「うーん……」
友一のお土産にはアクリルキーホルダーだけではなく、缶バッジや文房具など色々種類がある。
じーっと見つめたり、手で触ったりしながらどれがいいか思案する。
だが、どれを見てもピンとこない。
俺はキャラクターそのものより、話全体を好きになることの方が多く、推しというものがいないのだ。
強いて言うなら主人公が1番好き……という程度だ。
そうやって一つずつ眺めていると。
「……翔気」
「ん?」
さっきまでとは少し違う声だった。
見ると、友一はどこか落ち着かない様子で指先をいじっている。
「あの……ちょっと、相談があるんだけど」
「相談?」
「……恋愛相談、なんだけど」
思わず友一の顔を見る。
「恋愛相談?」
「うん」
友一は小さく頷き、恥ずかしそうに視線を落とした。
「ボク最近……気になる人ができちゃって。こういうこと相談できる人、翔気くらいしかいないから……」
「……」
思考が一瞬真っ白になりかけた。
気になる人。
ついこの間まで、友一は人を恋愛的に好きになったことがないと言っていた。
それが、たった数日で……?
「え、あ……そ、その相手って……」
「……二年のショウコ先輩って、知ってる?」
今度こそ、頭の中が真っ白になった。
「翔気?」
「……知らない」
「そっか。まあ、そうだよね」
友一は残念そうに笑った。
知らない。
当然だ。ショウコなんて人間は、この学校のどこにも存在しない。
「その人のことが……気になってるのか?」
ようやくそれだけ尋ねる。
「……うん。たぶん」
友一は頬を掻きながら、小さく頷いた。
「でも、こんなの初めてだから、自分でもよく分からなくて……翔気なら、どうしたらいいと思う?」
「…………」
友一は俺を頼っている。
親友だから。
自分一人では分からない感情を、俺なら真剣に考えてくれると信じて、打ち明けてくれた。
その相手が、目の前にいる俺だとも知らずに。
「……まだ、会ったばかりなんだろ?」
「うん。一昨日初めて会った」
「だったら……そんなに急がなくてもいいんじゃないか」
……何を言っているんだ、俺は。
灯子を助けるためには、友一にも急いでもらわなければならないのに。
「……そうだよね」
友一が小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「ボクもそう思ってたんだ。会ったばかりなのに、変だよね」
「いや、変ってわけじゃ……」
「でも、初めて会った時から、ショウコさんのことを何度も考えちゃって」
友一は、机の上にあるカイナのアクリルキーホルダーへ指を伸ばした。
つまむでもなく、縁を指先でなぞる。
「話してて楽しかったなあとか、もっと漫画の話をしてみたいなあとか……」
言葉を重ねるほど恥ずかしくなってきたのか、声は次第に小さくなっていく。
「ショウコさん、文化祭を楽しみにしてるって言ってたから……今日、学校で会えたら一緒に回りたいなって」
「……」
「でも、知り合ったばかりなのに誘ったら、迷惑だよね」
不安そうに、俺の顔を見上げる。
「……誘うだけなら」
喉の奥から、掠れた声が出た。
「誘うだけなら……いいんじゃないか」
友一の顔が、ぱっと持ち上がる。
「迷惑なら断るだろうし……少なくとも、嫌われてはいないと思う」
「そ、そうかな……!」
「まあ……昨日だって、二人で漫画展デートしたんだし」
「そ、そんな、デートだなんて!昨日のは、たまたまショウコさんの友達が行けなくなったから、ボクを誘ってくれただけ……」
そこまで言って、友一の口が止まった。
「…………あれ?」
「どうした?」
「ボク、翔気にショウコさんと漫画展へ行ったことまで、言ったっけ」
「…………言った」
「言ってないよ?」
「言った」
「いつ?」
「いや、ほら……さっき漫画展行ったって……」
「言ったけど、1人で行ったか、誰と行ったかは言ってないよ?」
「……」
しまった。余計なところで口を滑らせた。
友一の目が、さっきまでの照れたものから純粋な疑問に変わっている。
「翔気?」
「ふ、雰囲気で分かるもんだよ」
「何の雰囲気?」
「……恋してる男の雰囲気……とか?」
「なっ——!」
友一の顔が、一気に赤くなる。
「ち、違うから!まだそういうんじゃないから!」
ぶんぶんと首を横へ振る。
「でも、気になってるんだろ?」
「そ、それは……そうだけど」
「じゃあ、似たようなもんだろ」
「ぜ、全然違うよ……!」
さっきまで俺が漫画展のことを知っていた理由を問い詰めていたはずなのに、友一の意識は完全に別のところへ飛んでいた。
「やっぱり、ボク……そんなに分かりやすい?」
「まあ、少しは」
「うぅ……」
やがて、自分がむきになって否定したことまで恥ずかしくなったのか、カイナのキーホルダーで赤い顔を隠す。
それ以上追及をしてくる様子はなかったので、ひとまずさっきの失言は誤魔化せたらしい。
「……じゃあ」
しばらくして、友一がキーホルダーの陰から顔を覗かせる。
「誘ってみても、いいと思う?」
また俺へ許可を求める。
「……友一が自分で決めればいいんじゃない……?」
答えは結局友一に任せた。
「……うん」
友一は小さく頷く。
それからスマホを取り出した。
「じゃあ今、送ってみる」
「い、今?」
「うん。ショウコ先輩も、もう学校に来てるかもしれないし」
「あ、でも、もう少し考えてからでも——」
「いや、考えたら、怖くなって送れなくなりそうだから」
友一は緊張したように笑った。
「翔気が背中を押してくれた今じゃないと、たぶん無理だと思う」
友一が一度だけ深呼吸し、送信ボタンへ触れる。
その直後。
ブブッ。
「…………」
俺のポケットの中で、スマホが震えた。
友一が顔を上げる。
「……あれ?」
「え?」
「翔気も、誰かから連絡?」
「…………」
教室の雑音が、急に遠くなった。
ポケットの中には、ショウコとして友一と交換したDiscordが入っている。
そして目の前には、返事を待つ友一がいる。
「あ、あー!そろそろ文実の仕事あるから行くわー!」
「え、もう?」
「ああ。またあとでなー!」
友一の顔を見ないまま立ち上がる。
逃げるように、教室を出た。
ポケットの中では、スマホが一度だけ震えたまま、重く沈んでいた。




