恋と夢
ショウコと別れ、一人電車に揺られる。
いつもなら何となくスマホを眺めて時間を潰している。
だけど今日は画面を開く気にもなれず、ただ窓の外をぼんやりと見つめていた。
夕日に染まる街並みが流れていく。
高架下を走る車、踏切の前で止まる列、ホームに立つ制服姿の学生たち。
景色はちゃんと目に映っているのに、何一つ頭へ入ってこなかった。
頭の中では、さっきショウコに言われた一言だけが、何度も何度も繰り返されている。
——友一さんって、もしかして……漫画家になりたいんですか?——
「……漫画家」
口にしてみても、まるで自分とは関係のない言葉のように聞こえた。
そんなこと、考えたこともなかった。
漫画は好きだ。
だけど、自分で描きたいと思ったことなんて——
「……」
そこまで考えた時、電車が速度を落とした。
窓の外に、小さな公園が見える。
ベンチに座った小学生が、膝の上で漫画を開いていた。傍らには、赤いランドセルが置かれている。
夕暮れの公園、ランドセル、ベンチで読む漫画。
見覚えのある光景だった。
忘れていたはずの記憶が、胸の奥で静かにほどけていく。
いや、そうだ。
ボクも昔、あんなふうに——。
◇
あれは、確か小学五年生の頃だったか。
学校帰り、いつものように公園へ寄り道をした日のことだ。
ベンチへ座り、ランドセルから一冊の漫画を取り出す。
タイトルは『顎髭が似合う頃には君なんて忘れているから』
本屋で表紙に惹かれて買っただけだった。暇つぶしになればいい。その程度の気持ちだった。
だけど……読み始めたら、止まらなかった。
ページをめくる手が止まらない。
主人公が笑えば一緒に笑い、悔しがれば拳を握り、泣けば胸が締めつけられた。
気づけば日は傾き、公園にはボク一人しか残っていなかった。
本を閉じても、胸の鼓動はなかなか収まらなかった。
「……すごい」
思わず漏れた声は、自分でも驚くくらい震えていた。
一本の大作映画を観終えた後のような、深い余韻。
初恋を奪われたような、熱烈な衝撃。
漫画って、こんなにも人の心を動かせるんだ。
たった白と黒だけなのに……紙の上で描かれた人たちなのに……
胸が熱くなった。
その日、家に帰るとランドセルを放り投げ、部屋中を探し回って何も書かれていない大学ノートを見つけた。
机へ向かう。
定規で線を引き、見よう見まねでコマを作る。
主人公は男の子。ヒロインは、見た目はクールだけど、おおらかでカッコいい女の子。
「……うーん」
消しゴムで何度も消しては描き直す。
顔のバランスがおかしい。手がうまく描けない。背景がぐちゃぐちゃで見にくい。
しかしそれでも楽しかった。
一コマ描けるたびに嬉しくて。
物語が少しずつ形になっていくのが、たまらなく楽しかった。
学校の休み時間にも続きを考えて。
授業中なのに「次はこういう展開がいいかな」なんて、ノートの端へこっそりアイデアをメモしていた。
毎日、家へ帰るのが待ち遠しかった。漫画の続きを描きたかったから。
だけど。
「えー!なにこれ!」
ある日の昼休みだった。
机の中へしまっていたノートを、クラスの男子が勝手に取り出した。
「か、返して!」
慌てて手を伸ばす。
けれど、背の高いその子は笑いながらノートを頭の上へ持ち上げた。
「見せろ見せろー!」
ぱらぱらとページがめくられる。
「うっわ!友一、女ばっか描いてんじゃん!」
「やば、ほんとだ!」
周りにも人が集まってきた。
「友一ってこういうの好きなのかよー?」
「きもー!」
「なにこれエロ漫画じゃーん!」
「ち、違う……!」
声が震える。
「漫画……だから」
服をギュッと握る。
「ラブコメ、だから……女の人多くて……」
「はぁ?」
男子は吹き出した。
「漫画ってこれのこと?」
教室中へ聞こえるくらいの大きな声で笑う。
「ヘッタクソすぎだろ!」
また笑い声が広がる。
「これ漫画じゃなくて落書きじゃん!誰が読むんだよ、こんなの!」
その瞬間、胸の中で何かが、音を立てて壊れた。
放課後。
ノートを抱えたまま、一人で家へ帰った。ランドセルも下ろさず、自分の部屋へ入る。
机へ座り、ノートを開く。
昨日まで、あんなに続きを描くのが楽しみだったページ。
そこに描かれている主人公もヒロインも、もう自分を見て笑っているような気がした。
「……」
鉛筆を持つ。
でも、描けない。何を描こうとしても。頭の中では、昼休みの笑い声ばかり響いていた。
——誰が読むんだよ、こんなの!——
手が止まる。しばらく黙ってページを見つめたあと。ボクはノートを閉じた。
机の横に置かれたゴミ箱を見つめ、そしてもう一度だけ、ノートを見た。
目を閉じ……そして。
ぽとり。
小さな音を立てて、ノートはゴミ箱の中へ落ちた。
◇
——友一さんって、漫画家になりたいんですか?——
電車が揺れる。
窓ガラスに映るボクは、どこか呆然とした顔をしていた。
忘れたと思っていた。とっくに終わった話だと思っていた。
なのに、たった一言で、蓋をしたはずの記憶がこんなにも鮮明に蘇るなんて。
……どうして彼女は、あんなことを言ったんだろう。ボクの何を見て、そう思ったんだろう。どうして、こんなにも胸が苦しいんだろう。
窓ガラスにはボクが映っていた。何かを探すような目をしたボクが。
……ショウコ。
昨日、出会ったばかりなのに。
どうしてあの人の言葉は、こんなにもボクの心を乱すんだろう。
◯
家に帰っても、その感覚は消えなかった。
お気に入りの漫画を開いてもずっとどこか呆然としていた。
普段なら夢中になれるはずなのに、今日はページをめくる手が止まってしまう。
文字は読めている。なのに内容が頭へ入ってこない。
気づけばボクはDiscordを開き、『ショウコ』の名前をタップしていた。
通話ボタンの上で指が止まる。
こんな時間に電話なんて迷惑じゃないだろうか。
いや、そもそも何を話すつもりなんだろう。自分でも分からない。
だけど。この胸のモヤモヤだけは、一人じゃどうにもできそうになかった。
「……」
小さく息を吸う。そして、ボタンを押した。
呼び出し音が一回。
二回。
三回——。
長く感じる時間が過ぎていく。十回目のコールで、ようやく通話が繋がった。
『……もしもし』
少し慌てたような、どこか緊張した声が聞こえた。
「も、もしもし、ショウコさん?いま大丈夫でしたか?」
『あ、大丈夫ですよ』
声が少し上ずっている。
……あれ。
こうして通話越しで聞くと、彼女の声って思ったより低いんだな。
それにこの声どこか聞いたことがあるような気がする。
既視感、じゃなくてなんて言うんだろう。既聴感……なんて言葉はないか。
昼間は気にならなかったのに、不思議だ。
『なんでしょうか、友一さん……。何かありましたか?』
「あっ、す、すみません」
彼女の声に、我に返る。
危ない。無言のまま考え込んでしまっていた。
『どうしました? 何かありましたか?』
心配そうな声だった。
その優しさに背中を押されたような気がして、握っていたスマホへ力を込める。
「ショウコさんに、一つ聞きたいことがあるんです」
『……はい』
短い返事。
笑われるかもしれない。
困らせるかもしれない。
そんな不安が次々と浮かび、開きかけた口がまた閉じる。
「……ボクって」
自分でも、おかしな質問だと思う。
本来なら、自分で答えを出すべきことだ。昨日出会ったばかりの相手に尋ねることではない。
それでも、彼女に聞いてほしかった。
「漫画家になりたいんですか?」
返事はない。
スマホの向こうから、かすかな息遣いだけが聞こえる。
やはり変なことを聞いてしまったのだろうか。
不安とも期待ともつかない感情に、鼓動が速くなる。彼女が何かを言う前に、自分から冗談だったと誤魔化したくなった。
やがて。
『ふふっ』
小さな笑い声がスマホから聞こえた。
「……え」
——笑われた。
そう気づいた途端、頬が一気に熱くなる。
『ごめんなさい……なんかすごい変な聞き方するなって思って、ちょっと面白くて』
「す、すみません」
布団の上へ視線を落とす。
今すぐ通話を切ってしまいたかった。
『……でも友一さんらしい質問だとも思いましたよ?』
続けられた言葉に、俯いていた顔が上がる。
「……ボクらしい?」
『はい』
彼女は、楽しそうに息を漏らした。
『不器用だけど真っ直ぐな感じ……すごく友一さんらしいなあって……』
胸の奥が、かすかにくすぐったくなる。
そんなふうな見方をされるとは思っていなかった。
昔から自分のことは要領の悪い人間だとは思っていた。けれど、それを真っ直ぐだと言い換えてくれた人はいなかった。
スマホを持つ手に、じんわりと汗が滲む。
「あ、ありがとうございます……」
『どういたしまして』
そう言ってまた小さく笑われた。
しかし今度は先ほどほど恥ずかしくなかった。
むしろ、もう少しその声を聞いていたいと思った。
『……ごめんなさい、友一さんが漫画家になりたいのか……でしたよね』
「……はい」
自然と背筋が伸びる。
彼女が小さく息を吸う音がした。
『あの、これから言うことはすごく勝手な推測なので……聞き流してくれても構いません』
慎重な前置きだった。
軽い気持ちで答えようとしていないことが、その声音から伝わってくる。
ボクですら説明できない問いに、彼女は真剣に向き合おうとしてくれている。
「はい」
喉が乾いていた。返事をした自分の声が、妙に近く聞こえる。
『今日言ったとおり、友一さんは漫画家に憧れてると思います……でも私も家に帰って友一さんのこと改めて考えてみて……それだけじゃない気もしたんです』
「それだけじゃ……ない?」
無意識に身を乗り出していた。誰もいない部屋で、スマホへ耳を近づける。
『友一さんって、漫画をすごく大切にしていますよね。今日も、まるで宝物を扱うみたいに話していました』
その言葉に、自然と今日のことを思い出す。
好きな作品の話。好きなキャラの話。あの時間だけは、不思議なくらい言葉が止まらなかった。
『でも……だからこそ逆に、自分が描くことには、少し臆病になっているようにも見えたんです』
「……え」
『漫画って、友一さんにとってすごく特別なものだから。自分程度じゃ描くことはできない、描いちゃいけないって無意識に諦めて、線を引いちゃってるのかなって思ったんです』
「…………」
返事ができなかった。
忘れていたはずの光景が、目を閉じても鮮明に浮かんだ。
彼女は、あの日のことを知らない。
ボクが漫画を描いていたことさえ知らない。
それなのに、彼女の言葉は、ボクが長い間触れないようにしていた場所を真っ直ぐに見つめていた。
「そう……なんですか……?」
自分でも情けないくらいか弱い声だった。
『もちろん本当のところは友一さんにしか分かりません、でも……私には、そう見えました』
彼女は少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
『漫画の話をしてる友一さん、本当に楽しそうでした。でもそれ以上に憧れの眼差しをしてた気がするんです。』
静かな声が、胸の奥へ染み込んでいく。
『だから……もしかしたらですけど、心のどこかでは、自分でも誰かの心を動かすような作品を描いてみたいって、そう思ってるんじゃないですか?』
その一言で頭の中に、一冊の漫画が浮かんだ。
『顎髭』
小学生の頃、初めて夢中になって読んだ漫画。初めて「漫画って、こんなに面白いんだ」と思えた作品。
何度も読み返して。泣いて、笑って、あの作品があったから、今のボクがいる。
……もし。
もし本当に、あんな作品を自分でも描けたら。
誰か一人でも、自分があの日感じたものと同じ気持ちにできたら。
ほんの一瞬、そんな未来が頭に浮かんだ。
「……っ」
——誰が読むんだよ、こんなの!——
胸の奥でドクンと何かが大きく脈打った。
身体の奥から熱が込み上げてくる。
呼吸が浅くなる。喉が渇く。心臓だけが、やけにうるさい。
「……思いますか」
『……え?』
「ボクなんかの……」
自分でも驚くくらい弱々しい声だった。
「今まで読むことばっかりだったボクなんかの……落書きみたいな漫画……」
拳を握る。
怖かった。期待するのが怖かった。夢を見てしまうのが怖かった。
「……誰かに読んでもらえると思いますか」
彼女は、すぐには答えなかった。何かを考えるような沈黙が続いた。
答えを聞きたかった、でも聞きたくもなかった。
矛盾した心に鈍痛が伴う。今すぐ通話を切りたかった。
数秒。
いや、数十秒にも感じる静寂。
やがて、時計の秒針の音が、急に大きく聞こえ始めた頃。
『……分かりません』
静かな答えだった。
「…………」
胸の奥が冷える。
ほんの少しだけ期待していた言葉とは違った。
大丈夫だと言ってほしかった。
きっと読んでもらえると、根拠もなく励ましてほしかった。
そんな自分勝手な期待が、静かに萎んでいく。
『でも』
続いた一言に、止まりかけた呼吸が戻る。
無意識に顔を上げていた。
『友一さんが描く漫画なら、私は読んでみたいです』
「——」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
それはちっぽけで、どうでもよくて、しょうもなくて、だけど、あの日からずっとボクの人生に張りついて、どうしても剥がれなかった暗いもの。
たった一人。
たった一人が、「読みたい」と言ってくれた。
それだけだった。
それだけなのに……
「……ありがとう、ございます」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
喉の奥が熱い。目頭がじんわりと熱を帯びていく。
『はい』
彼女は笑わなかった。
優しい声で、それだけ返してくれた。
胸元を、服の上から強く押さえる。
気づくと弾けたものの下から、二つの感情がゆっくりと動き始めていた。
「……」
まだ、そのどちらにも明確な名前はつけられない。けれど、確かにその日、それらはボクの中で脈打ち始めた。
二度と元には戻れないくらい、確かな音を立てて。




