漫画展② 憧憬
展示会場へ戻ってからも、友一の質問は止まらなかった。
「そういえば、ショウコさんって二年何組なんですか?」
いきなり核心を突かれ、心臓がどくりと跳ねる。
「えっと……クラスは、ちょっと……」
曖昧に笑って言葉を濁すと、友一は何かに気づいたように口を押さえた。
「す、すみません!個人情報ですよね!」
「い、いえ。そういうわけでは……」
個人情報だから答えられないのではない。答えそのものが存在しないのだ。
「でも、同じ学校なんて嬉しいなぁ」
友一は疑う様子もなく笑った。
「部活は何をしてるんですか?」
「帰宅部です」
「そうなんですね。ボクも帰宅部なんですよ!」
それくらいなら安全に答えられる。
「じゃあ、昼休みはどこで食べてるんですか?」
「その日の気分ですね」
「なるほど。自由なんですね」
教室、中庭、食堂。何を答えても、その先には「今度会いに行ってもいいですか」が待っている。
だから、特定の場所を口にするわけにはいかなかった。
「そういえば、ショウコさんは明日の文化祭、楽しみですか?」
「え?」
——文化祭。
そうだ。明日は学校の文化祭だった。
「……ええ、そうですね」
「ボク、文化祭って初めてなんですよ。中学には文化祭らしい文化祭がなかったので、ずっと楽しみにしてたんです!」
「そうなんですね」
「ショウコさんのクラスは、もう準備終わったんですか?」
胸がひやりとする。
そもそも、ショウコが二年何組なのかすら決めていない。存在しない自分のクラスの準備状況など、答えられるはずがなかった。
「まあ……だいたいは」
「いいなぁ。ボクたちなんて、最後まで結構バタバタしてましたよ」
その後も友一は、好きな先生や売店、二年生の修学旅行について悪気なく質問してきた。
そのたびに俺は曖昧な返事をして、笑って誤魔化す。
まるで薄氷の上を歩いているようだった。
一歩でも踏み外せば、ショウコという存在は音を立てて崩れてしまう。
そんな綱渡りを続けながら、俺たちは残りの展示を見て回った。
次の区画へ入ると、友一の足がぴたりと止まった。
「…………」
その視線の先には、海辺を模した展示スペースが設けられていた。
白い砂浜を再現した床。青い海が描かれた背景。ビーチパラソルや浮き輪。
壁には、『顎髭』のヒロインたちが水着姿で海辺に並ぶ、雑誌掲載時の巻頭イラストが大きく引き伸ばされている。
そして、その中央に立っているのは、イラストを基に制作された、鼬重カイナの等身大フィギュアだった。
赤い水着姿で腰へ片手を当て、こちらへ微笑みかけている。
ほかの展示では忙しなく動いていた友一の視線が、一点へ固定されていた。
「友一さん?」
「…………」
「友一さん」
「えっ」
友一がびくりと肩を揺らし、慌ててこちらを振り返る。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。これは、その……すごく貴重なフィギュアなんです」
「そうなんですか?」
「はい。アニメ放送五周年を記念して、月刊◯◯の八月号に掲載された巻頭イラストを基に作られたものなんです。普段は出版社の本社に飾られていて、一般公開されたのは今回で二回目なんですよ」
「ず、随分詳しいですね」
「ファンの間では有名ですから。それに、元になったイラストだと下の方が少しトリミングされてるんです。だからこうして全体を見られる機会はほとんどなくて」
「下の方?」
改めてイラストを見る。
下部には、水着姿のヒロインたちの腰から脚にかけてが描かれていた。
「そこが重要なんですか?」
「あ、ち、違いますよ!?全体の構図を把握するために重要という意味です!」
「なるほど」
「イラストもフィギュアも一部分だけでなく、全体を見なければ作者の意図を理解できませんから!」
もっともらしく説明しているが、友一の視線は先ほどから一人のヒロインへ何度も戻っている。
赤い水着を着たカイナだ。
イラストの中に描かれたカイナの腰から脚を見た後、今度は等身大フィギュアの同じ部分へ視線を移す。
平面と立体を比較しているつもりなのかもしれないが、見ている場所があまりにも分かりやすかった。
俺も友一の隣へ立ち、フィギュアを見上げる。
「顔の再現度も高いですね」
「そうですね」
「髪も細かく作られています」
「はい」
「友一さんは、さっきから顔も髪も見ていませんけど」
「……見てましたよ?」
「イラストとフィギュアの腰ばかり見比べていたような」
「水着の造形を確認してたんです!」
「水着がお好きなんですか?」
「う……あ……ち、違います!」
友一が勢いよくこちらを向いた。
耳がすでに赤くなっている。
「衣装もキャラクターデザインの一部なので、どう再現されてるのか確認していただけです!」
「へぇ、どの辺りがよく再現されてました?」
「腰のリボンとか、布の皺とか……あと、脚へ繋がる部分の——」
そこで友一の口が止まった。
「脚へ繋がる部分の?」
「……何でもないです」
「気になります」
「気にしないでください」
「そんなにじっくり見ていたのに?」
「し、じっくりなんて見てません!」
そう言いながら、友一の視線が再びフィギュアへ戻る。
今度は見ている場所を誤魔化すためか、顔から足元まで忙しなく動かしていた。
「友一さんって、案外むっつりですよね」
「むっ——!」
友一が絶句する。
それは、翔気として接していた頃から思っていたことだった。
普段は恋愛漫画の尊さや、登場人物の繊細な心理描写について熱く語っているくせに、温泉回や水着回の内容だけは妙に細かく覚えている。
以前、『顎髭』で一番好きな話を尋ねた時も、友一はヒロインたちが温泉旅行へ行く回を挙げた。
本人は「登場人物同士の関係が大きく進展する重要な回だから」と力説していたが、誰がどんな浴衣を着ていたか、入浴場面で湯気がどこにかかっていたかまで完璧に記憶していた。
そのことを追及すると、
『ま、漫画を深く理解するためには、画面の隅々まで見る必要があるんだよ』
と、もっともらしい顔で答えていた。
どうやらショウコを相手にしても、その性質は変わらないらしい。
「ち、違います!ボクは純粋にフィギュアの完成度を見ていただけです!」
「あはは……別に責めていませんよ?」
「絶対面白がってますよね……」
「少しだけ」
「ショウコさん、意地悪です……」
友一は恥ずかしそうに俯いた。
見た目は清純な美少女そのものだが、中身はしっかり思春期男子らしい。
「まあまあ、せっかくですし、一緒に写真とか撮りますか?」
「えっ、いいんですか?」
「はい。カイナと一緒の写真、撮ってあげますよ」
「そ、そういう意味ですか……」
なぜか一瞬だけ残念そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
「何でもないです……!」
友一は誤魔化すように、フィギュアの隣へ駆けていった。
俺がスマホを構えると、最初は少し距離を空けて立っていたが、何度か位置を調整するうちに、いつの間にかカイナのすぐ隣まで近づいている。
「撮りますよ」
嬉しそうな笑顔を画面へ収める。
撮影を終えた後も、友一は名残惜しそうにフィギュアを振り返っていた。
最後にどこを見ていたのかは、あえて聞かないでおいた。
気づけば展示の順路も終盤に差しかかり、館内を歩く人の数も少しずつ減り始めていた。
最後に俺たちが足を止めたのは、『顎髭』の直筆原画が並ぶ展示だった。
ガラスケースの中には、作者が実際に描いた生原稿が飾られている。
ペンの勢い。ホワイトで修正した跡。印刷では潰れてしまう細かな描き込み。
どれも単行本では見られないものばかりだった。
「……」
友一は何も言わない。
さっきまで展示を見るたびにはしゃいでいたのに、今は一枚一枚を目へ焼き付けるように原画を見つめていた。
ガラス越しへ身体を寄せ、線の一本一本を追うように視線を動かしている。
「……そんなに好きなんですね」
思わず声を掛ける。
友一は原画へ視線を向けたまま、小さく笑った。
「はい」
それだけ答え、再び原画へ見入る。
その目を見ていると、不思議な既視感があった。
楽しそうなのに、それだけではない。
憧れているような。遠くから眺めるだけでは、どこか満足できていないような。
そんな目だった。
『本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。閉館まで残り一時間となりました——』
館内へ穏やかなアナウンスが響く。
「……もうそんな時間なんですね」
友一は名残惜しそうに原画を見つめた。
「まだ全然見足りないです」
「また来ればいいじゃないですか」
「……そうですね」
一拍置き、友一が照れくさそうに続ける。
「その時は……またショウコさんとも来たい——」
そこで自分の言葉に気づいたらしく、足を止めた。
みるみる耳まで赤く染まっていく。
「い、いや、その……! 変な意味じゃなくて! 趣味も合いますし、一緒だと絶対楽しいなって思っただけで……!」
言えば言うほど墓穴を掘っている。
しどろもどろになって視線を泳がせる姿がおかしくて、思わず笑みが零れた。
「あはは」
「うぅ……ボク、思ったことをそのまま口にしちゃう時があるんです」
「ふふ、知ってます」
「え?」
「お昼の時もそうでしたから」
昼の出来事を思い出したのか、友一はさらに顔を赤くした。
「……恥ずかしい」
そんな様子を見ていると、不思議と肩の力が抜けていく。
「私も、友一さんとまた来たいです」
「……!」
友一は一瞬目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「……はい!」
その笑顔は、今日一番と言っていいほど無邪気だった。
◯
駅までの帰り道。
夕焼けに染まる歩道を、俺と友一は並んで歩いていた。
「いやぁ……今日は本当に最高でした!」
友一は両手いっぱいに抱えた戦利品を見つめながら、満足そうに笑う。
「『顎髭』の展示なんて、一時間いても全然足りませんでしたよ」
「そんなにですか?」
「はい! あの作者さんって、紙に描いてる時点で線の勢いがすごいんですよ。単行本じゃ分からない細かい描き込みも見られて、本当に感動しました」
友一は身振り手振りを交えながら、夢中で話し続ける。
コマ割り。ネーム。ペンの強弱。インクの飛び散り方。人物の身体を形作る線。光と影のつけ方。好きな場面の演出。
どれも、普通の読者なら見過ごしてしまいそうな話ばかりだった。
好きなものを語る友一は、とても楽しそうだった。
その姿を見ていると、ふと愛のことを思い出した。
服を選んでいた時の愛も、こんな顔をしていた気がする。
「……」
俺は思わず足を止めそうになった。
もしかして。
「……どうかしましたか、ショウコさん?」
友一が不思議そうに首を傾げる。
「……あ、すみません。あの、的外れだったら申し訳ないんですけど……」
「はい?」
「友一さんって、もしかして……漫画家になりたいんですか?」
「……え?」
友一が立ち止まる。
目を丸くしたまま、しばらく瞬きすらしなかった。
「えっと……どうして、そう思ったんですか?」
「なんというか……今日一緒に展示を見ていて、友一さんって、ただ漫画が好きなだけの人とは、見ているところが違う気がしたんです」
「……」
「私の知り合いに、ファッションデザイナーを目指している子がいるんですけど……その子が服の話をする時と、今日の友一さんが漫画について話す時、同じ目をしているように見えて」
「同じ目……?」
「はい。ただ好きなだけじゃなくて、その向こう側を見ているような目というか……だから、もしかしたら漫画家に憧れているのかもって」
友一は黙って聞いていた。
翔気として隣にいた時から、友一が漫画へ人一倍強い憧れを抱いていることは知っていた。
けれど、それは読者としての憧れだと思っていた。
今日、ショウコとして少し離れた場所から見たことで、初めて違う可能性に気づいた。
もしかすると、こいつはずっと作る側へ憧れていたのではないだろうか。
しばらく歩いてから、友一が小さく呟いた。
「……分からないです」
友一は少し困ったように笑った。
「漫画は好きです。でも、漫画家になりたいとかは……あまりよく分からなくて……」
「すみません。変なことを聞いちゃいましたね」
「い、いえ!」
友一は慌てて首を横に振る。
「そんなことを言われたの、初めてで……ちょっと変な気分です」
それだけ言って、小さく笑った。
それ以上、その話はしなかった。
代わりに、次に開催される漫画展や、今日買ったグッズについて話しながら駅まで歩いた。
けれど、漫画について語る友一の声は、先ほどよりも少しだけぎこちなかった。




