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浮気物語~俺と10人の彼女たち~  作者: さんぶうい
女装と漫画と同性愛
38/48

風前灯子

◯◯市立病院。


 自動ドアを抜けた瞬間、俺は周囲の目も気にせず、そのまま人気の少ない廊下を駆け出していた。


「ハァッ……ハァッ……!」


 神社からここまで、一度もまともに足を止めていない。


 肺の奥が焼けるように熱い。


 喉はからからに乾き、呼吸をするたびに胸が痛んだ。足も鉛を括りつけられたように重く、少しでも気を抜けば、その場に倒れ込んでしまいそうだった。


 それでも止まれなかった。

 

 艶事主命が去り際に残した言葉が、何度も頭の中で反響する。


『もう1つ、今日(けふ)の16時37分46秒。病院にて風前灯子が目を覚ます。』


 現在時刻は16時40分。


 もしあの神の言葉が本当なら、灯子はもう目を覚ましている。


「……っ」


 胸の奥が大きく脈打つ。


 本当に?


 本当に、灯子が?


 期待すればするほど、その直後に否定されるのが怖くなる。あれは神の悪趣味な冗談だったのではないか。


 病室へ着いても、灯子は以前と変わらず眠っているのではないか。


 不安が次々と頭へ浮かんでくる。


 それらを振り払うように、床を強く蹴った。


 廊下の角を曲がると、見覚えのある病室が視界の先に現れた。


 俺は足を止め、荒い呼吸を繰り返しながら病室の札を見る。


 302【風前灯子】


 そこに記された名前を見ただけで、胸が締めつけられた。


 ドアへ手を伸ばす。だが、指先が触れる直前で動きが止まった。


 手が震えていた。走り続けた疲労のせいではない。最後にこの病室で見た灯子の姿が、鮮明に蘇ってきたからだ。


 白いベッドの上、閉じたままの瞼、細い身体へ繋がれた何本ものチューブ。規則正しく鳴り続ける機械音。


 俺の声にも、手の温もりにも、何の反応も返してくれなかったあの時の姿が、頭から離れない。


 もし、扉の向こうにいる灯子が、まだあのままだったら。


 もし、神の言葉が嘘だったら。


 そう考えた途端、足元から身体が冷えていった。


「……クソ」


 ここまで来て怖じ気づいてどうする。


 俺は唇を強く噛み締めた。鉄の味が、わずかに口の中へ広がる。


 その痛みで無理やり身体を奮い立たせ、病室のドアを開いた。


 室内は、静かだった。


 白いカーテン。窓から差し込む橙色の夕陽。消毒液と、花の混じった匂い。棚の上には花束や千羽鶴、寄せ書きの色紙が並んでいた。


 俺が別の女の子たちと恋をするのに必死で、ここへ来られなかった間にも、きっとクラスメイトたちは何度も見舞いに来ていたのだろう。


 その一つ一つを目で追いながら、ゆっくりと視線を奥へ移す。


 そして……ベッドの上。ひとりの少女がこちらを見ていた。


 艶のある黒髪、透き通るような白い肌、少し驚いたように丸くなった瞳。


 以前より頬はやつれていた。それでも、確かに彼女はそこにいた。


「……翔気……くん?」


 かすかに掠れた声。けれど、確かに灯子の声だった。


 その瞬間、時間が止まったような気がした。


 音も、匂いも、自分の呼吸さえも。何もかもが遠ざかっていく。


 灯子の顔を見た途端、これまで彼女と過ごしてきた時間が、断片的に頭の中へ溢れ出した。


 にこやかな笑顔で話しかけられた4月のあの日、LINEを交換した5月のあの日、一緒に帰った6月のあの日、2人で勉強をした7月のあの日、カフェで駄弁った8月のあの日、告白しようと手紙を出した9月のあの日……


「あ……」


 声が出ない。胸の奥から何かが込み上げ、喉を塞いでいた。


「ああ……」


 ふらつく足で、ベッドへ近づく。一歩進むたびに、視界が滲んでいく。頬を熱いものが伝っていた。


「翔気くん……だよね?」


 灯子は戸惑ったように俺を見つめた。


「どう……したの?そんなに泣いて……」


 ゆっくりと周囲を見回す。


「それに……ここ、どこ?」


 その声には、かすかな怯えが混じっていた。


 当然だ。灯子にとっては、通り魔に襲われた直後から時間が止まっている。


 自分がなぜ病院にいるのか。どれほど長く眠っていたのか。何一つ分からないはずだった。


 それでも。その困惑した表情も。少し首を傾げる仕草も。目の前の俺を心配するような声も。


 すべて、俺が好きになった灯子のものだった。


 もう会えないかもしれないと思った。もう二度と話せないかもしれないと思った。


 絶望して。それでも諦めきれなくて。神様に縋って。


 ここまで来た。


「灯子……」


 震える声で名前を呼ぶ。


「灯子……!」


 俺はベッド脇へ膝をつき、灯子の手を両手で包み込んだ。


 細く、温かい手だった。ちゃんと体温がある。生きている。


 その事実を確かめた途端、耐えていたものが一気に崩れた。


 握った手へ額を押しつける。


 肩が震える。涙が止まらない。喉の奥から、何度もみっともない嗚咽が漏れた。


「灯子……よかった……」


 それ以上、言葉にならなかった。


 何を伝えればいいのか分からない。目を覚ましてくれてありがとう、と言えばいいのか。生きていてくれてありがとう、と言えばいいのか。会いたかったと、叫べばいいのか。


 感情が多すぎて、どれ一つとして形にならなかった。


 灯子はしばらく驚いたように俺を見ていた。


 しかしやがて、力の入りきらない腕をゆっくりと持ち上げる。


 細い指先が、そっと俺の髪へ触れた。


「大丈夫だよ」


 弱々しい手つきで、優しく頭を撫でる。


「私は、ここにいるから」


 その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さった。


 自分がなぜここにいるのかも分からないはずなのに。目覚めたばかりで、不安で仕方ないはずなのに。


 それでも灯子は、泣いている俺のことを真っ先に心配してくれた。


「……うん」


 喉の奥から、ようやくそれだけを絞り出す。


 顔を上げると、灯子は不安そうにしながらも、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。


 その笑顔を見た途端、胸の奥で張り詰めていたものが、少しずつほどけていった。

 

 ◯


 その後、灯子が目を覚ましたことに気づいた看護師が医師を呼び、病室は一気に慌ただしくなった。


 医師からいくつか質問を受けた灯子は、まだ状況をよく理解できていない様子だった。


 俺もそばに残りたかった。


 聞きたいことも、話したいことも、山ほどあった。


 だが目覚めたばかりの灯子はすぐに検査を受けることになり、医師と看護師に付き添われて病室を出ていった。


 俺は待合室で検査が終わるのを待つつもりだった。


 しかし、その前に面会時間が終了した。


 後ろ髪を引かれる思いで病院を出る。


 外へ出ると、空はすでに夕暮れ時だった。


 昼間の熱気は少しずつ薄れ、橙色に染まった街並みを、涼しい風が静かに吹き抜けていく。


 俺は玄関前で足を止め、病院を振り返った。


 いくつも並ぶ窓。あのどこかに、灯子がいる。


 それだけで、胸の奥が熱くなった。


 生きていた。


 ちゃんと息をしていた。俺の名前を呼んでくれた。少し情けないが頭を撫でて、「大丈夫だよ」と笑ってくれた。


 夢ではない。灯子は、確かに目を覚ました。


 拳を強く握りしめる。


 このまま回復してくれればいい。


 また学校へ来て。教室で笑って。今までと同じように、くだらない話をして。


 放課後には二人で寄り道をして。


 そうして、失われた日常が戻ってくればいい。


 だが、最初に艶事主命と会った時、告げられた言葉が頭をよぎる。


 ——灯子の寿命は、残り70日。


 それは、灯子が目を覚ました今も変わっていないのだろうか。


 もし意識が戻ったことで、危機を乗り越えたのなら、もうこれ以上共鳴体と付き合う必要はないのではないか。


 そんな淡い期待が、ほんの一瞬だけ胸に芽生えた。


 ピコン。


 ポケットの中で、スマホが鳴った。


 画面を見る。


『灯子ちゃんが死んでいいならそれもいいかもね♡』


「……」


 こちらの考えなど、すべて見透かされているらしい。


 画面の文字を見つめたまま、胸の奥が急速に冷えていった。


 やはり終わってはいない。


 灯子が目を覚ましたからといって、助かったわけではない。


 残りは、55日。


 二か月もない。


 その時間が過ぎれば、今日ようやく目を覚ました灯子が死ぬ。


 そんな未来だけは、絶対に認められなかった。


「……ッ」


 握った拳へ、さらに力を込める。爪が手のひらに食い込む。


 灯子には笑っていてほしい。


 教室で笑って、くだらない話をして、放課後に寄り道して。


 また、あの日々を繰り返したい。そのためなら俺は、何だってやる。


 どんなに馬鹿げたことでも、どんなに情けない姿を晒すことになっても。


 それで灯子が生きられるなら安い代償だ。


 艶事主命の言葉を思い出し、愛とのトーク画面を表示する。


『愛ちゃん』


 そこまで打って、一瞬指が止まった。


 一度、深く息を吸う。


 そして一気に文字を打ち込んだ。


『愛ちゃん、お願いがあるんだけどちょっといいかな』

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