風前灯子
◯◯市立病院。
自動ドアを抜けた瞬間、俺は周囲の目も気にせず、そのまま人気の少ない廊下を駆け出していた。
「ハァッ……ハァッ……!」
神社からここまで、一度もまともに足を止めていない。
肺の奥が焼けるように熱い。
喉はからからに乾き、呼吸をするたびに胸が痛んだ。足も鉛を括りつけられたように重く、少しでも気を抜けば、その場に倒れ込んでしまいそうだった。
それでも止まれなかった。
艶事主命が去り際に残した言葉が、何度も頭の中で反響する。
『もう1つ、今日の16時37分46秒。病院にて風前灯子が目を覚ます。』
現在時刻は16時40分。
もしあの神の言葉が本当なら、灯子はもう目を覚ましている。
「……っ」
胸の奥が大きく脈打つ。
本当に?
本当に、灯子が?
期待すればするほど、その直後に否定されるのが怖くなる。あれは神の悪趣味な冗談だったのではないか。
病室へ着いても、灯子は以前と変わらず眠っているのではないか。
不安が次々と頭へ浮かんでくる。
それらを振り払うように、床を強く蹴った。
廊下の角を曲がると、見覚えのある病室が視界の先に現れた。
俺は足を止め、荒い呼吸を繰り返しながら病室の札を見る。
302【風前灯子】
そこに記された名前を見ただけで、胸が締めつけられた。
ドアへ手を伸ばす。だが、指先が触れる直前で動きが止まった。
手が震えていた。走り続けた疲労のせいではない。最後にこの病室で見た灯子の姿が、鮮明に蘇ってきたからだ。
白いベッドの上、閉じたままの瞼、細い身体へ繋がれた何本ものチューブ。規則正しく鳴り続ける機械音。
俺の声にも、手の温もりにも、何の反応も返してくれなかったあの時の姿が、頭から離れない。
もし、扉の向こうにいる灯子が、まだあのままだったら。
もし、神の言葉が嘘だったら。
そう考えた途端、足元から身体が冷えていった。
「……クソ」
ここまで来て怖じ気づいてどうする。
俺は唇を強く噛み締めた。鉄の味が、わずかに口の中へ広がる。
その痛みで無理やり身体を奮い立たせ、病室のドアを開いた。
室内は、静かだった。
白いカーテン。窓から差し込む橙色の夕陽。消毒液と、花の混じった匂い。棚の上には花束や千羽鶴、寄せ書きの色紙が並んでいた。
俺が別の女の子たちと恋をするのに必死で、ここへ来られなかった間にも、きっとクラスメイトたちは何度も見舞いに来ていたのだろう。
その一つ一つを目で追いながら、ゆっくりと視線を奥へ移す。
そして……ベッドの上。ひとりの少女がこちらを見ていた。
艶のある黒髪、透き通るような白い肌、少し驚いたように丸くなった瞳。
以前より頬はやつれていた。それでも、確かに彼女はそこにいた。
「……翔気……くん?」
かすかに掠れた声。けれど、確かに灯子の声だった。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
音も、匂いも、自分の呼吸さえも。何もかもが遠ざかっていく。
灯子の顔を見た途端、これまで彼女と過ごしてきた時間が、断片的に頭の中へ溢れ出した。
にこやかな笑顔で話しかけられた4月のあの日、LINEを交換した5月のあの日、一緒に帰った6月のあの日、2人で勉強をした7月のあの日、カフェで駄弁った8月のあの日、告白しようと手紙を出した9月のあの日……
「あ……」
声が出ない。胸の奥から何かが込み上げ、喉を塞いでいた。
「ああ……」
ふらつく足で、ベッドへ近づく。一歩進むたびに、視界が滲んでいく。頬を熱いものが伝っていた。
「翔気くん……だよね?」
灯子は戸惑ったように俺を見つめた。
「どう……したの?そんなに泣いて……」
ゆっくりと周囲を見回す。
「それに……ここ、どこ?」
その声には、かすかな怯えが混じっていた。
当然だ。灯子にとっては、通り魔に襲われた直後から時間が止まっている。
自分がなぜ病院にいるのか。どれほど長く眠っていたのか。何一つ分からないはずだった。
それでも。その困惑した表情も。少し首を傾げる仕草も。目の前の俺を心配するような声も。
すべて、俺が好きになった灯子のものだった。
もう会えないかもしれないと思った。もう二度と話せないかもしれないと思った。
絶望して。それでも諦めきれなくて。神様に縋って。
ここまで来た。
「灯子……」
震える声で名前を呼ぶ。
「灯子……!」
俺はベッド脇へ膝をつき、灯子の手を両手で包み込んだ。
細く、温かい手だった。ちゃんと体温がある。生きている。
その事実を確かめた途端、耐えていたものが一気に崩れた。
握った手へ額を押しつける。
肩が震える。涙が止まらない。喉の奥から、何度もみっともない嗚咽が漏れた。
「灯子……よかった……」
それ以上、言葉にならなかった。
何を伝えればいいのか分からない。目を覚ましてくれてありがとう、と言えばいいのか。生きていてくれてありがとう、と言えばいいのか。会いたかったと、叫べばいいのか。
感情が多すぎて、どれ一つとして形にならなかった。
灯子はしばらく驚いたように俺を見ていた。
しかしやがて、力の入りきらない腕をゆっくりと持ち上げる。
細い指先が、そっと俺の髪へ触れた。
「大丈夫だよ」
弱々しい手つきで、優しく頭を撫でる。
「私は、ここにいるから」
その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さった。
自分がなぜここにいるのかも分からないはずなのに。目覚めたばかりで、不安で仕方ないはずなのに。
それでも灯子は、泣いている俺のことを真っ先に心配してくれた。
「……うん」
喉の奥から、ようやくそれだけを絞り出す。
顔を上げると、灯子は不安そうにしながらも、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見た途端、胸の奥で張り詰めていたものが、少しずつほどけていった。
◯
その後、灯子が目を覚ましたことに気づいた看護師が医師を呼び、病室は一気に慌ただしくなった。
医師からいくつか質問を受けた灯子は、まだ状況をよく理解できていない様子だった。
俺もそばに残りたかった。
聞きたいことも、話したいことも、山ほどあった。
だが目覚めたばかりの灯子はすぐに検査を受けることになり、医師と看護師に付き添われて病室を出ていった。
俺は待合室で検査が終わるのを待つつもりだった。
しかし、その前に面会時間が終了した。
後ろ髪を引かれる思いで病院を出る。
外へ出ると、空はすでに夕暮れ時だった。
昼間の熱気は少しずつ薄れ、橙色に染まった街並みを、涼しい風が静かに吹き抜けていく。
俺は玄関前で足を止め、病院を振り返った。
いくつも並ぶ窓。あのどこかに、灯子がいる。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
生きていた。
ちゃんと息をしていた。俺の名前を呼んでくれた。少し情けないが頭を撫でて、「大丈夫だよ」と笑ってくれた。
夢ではない。灯子は、確かに目を覚ました。
拳を強く握りしめる。
このまま回復してくれればいい。
また学校へ来て。教室で笑って。今までと同じように、くだらない話をして。
放課後には二人で寄り道をして。
そうして、失われた日常が戻ってくればいい。
だが、最初に艶事主命と会った時、告げられた言葉が頭をよぎる。
——灯子の寿命は、残り70日。
それは、灯子が目を覚ました今も変わっていないのだろうか。
もし意識が戻ったことで、危機を乗り越えたのなら、もうこれ以上共鳴体と付き合う必要はないのではないか。
そんな淡い期待が、ほんの一瞬だけ胸に芽生えた。
ピコン。
ポケットの中で、スマホが鳴った。
画面を見る。
『灯子ちゃんが死んでいいならそれもいいかもね♡』
「……」
こちらの考えなど、すべて見透かされているらしい。
画面の文字を見つめたまま、胸の奥が急速に冷えていった。
やはり終わってはいない。
灯子が目を覚ましたからといって、助かったわけではない。
残りは、55日。
二か月もない。
その時間が過ぎれば、今日ようやく目を覚ました灯子が死ぬ。
そんな未来だけは、絶対に認められなかった。
「……ッ」
握った拳へ、さらに力を込める。爪が手のひらに食い込む。
灯子には笑っていてほしい。
教室で笑って、くだらない話をして、放課後に寄り道して。
また、あの日々を繰り返したい。そのためなら俺は、何だってやる。
どんなに馬鹿げたことでも、どんなに情けない姿を晒すことになっても。
それで灯子が生きられるなら安い代償だ。
艶事主命の言葉を思い出し、愛とのトーク画面を表示する。
『愛ちゃん』
そこまで打って、一瞬指が止まった。
一度、深く息を吸う。
そして一気に文字を打ち込んだ。
『愛ちゃん、お願いがあるんだけどちょっといいかな』




