校庭にて
月明かりが照らす夜の学校は、昼間とは別の場所のようだった。
誰もいない校庭を風が静かに渡り、錆びついた朝礼台かすかに軋む。
街灯の淡い光の中に、一人立つ翔気の姿が見えた。
その姿を見つけた瞬間、冷めたはずの心臓が嫌というほど脈を打ち始める。
来るつもりなんてなかった、何度も引き返そうと思った。
それでも気づけば、ここまで来てしまっていた。
「ありがとう江蜜さん、こんな夜遅くなのに来てくれて」
月明かりの下で翔気が笑う。
その何気ない笑顔だけで胸が熱くなる。
……情けない。
こんな男の笑顔を見ただけで嬉しくなる自分が、たまらなく情けなかった。
その感情をごまかすように睨みつける。
「話ってなに?」
翔気は一度小さく息を吸った。
その仕草だけで、これから口にする言葉がどれだけ重いものなのか伝わってくる。
「まずは、ごめん」
そう言って深く頭を下げた。
「俺今まで江蜜さんのこと好きになるのが怖かったんだ、だからあんな中途半端な態度とって……でもそのせいで江蜜さんのこと傷つけた、本当にごめん」
夜の校庭は静かだった。
だからこそ、その謝罪だけがまっすぐ胸へ届く。
「でもある人にそんな自分を叱られてさ、ちゃんと自分の気持ちに向き合おうって決めたんだ……そしたら江蜜さんのことちゃんと好きな自分がいることにも気づけたんだ。」
彼は何か覚悟を決めたようにぎゅっと拳を握りしめ、真っ直ぐこちらを見つめた。
「江蜜さん、好きだ。改めて……俺と付き合ってくれ」
差し出された手は震えていた。
強がっているように見えて、その実、彼も怖いのだ。
断られることを、嫌われることを。
それでも逃げずに立っている。
その姿が、どうしてこんなにも眩しいのだろう。
私は一度目を閉じる。
肺いっぱいに冷たい夜気を吸い込んで、ゆっくり吐いた。
「都合いいことばっか、嘘つき」
声は、自分でも驚くほど低かった。
「私のこと好きになる人なんているわけないじゃん。こんなすぐにキレるメンヘラ女のことなんて」
「そんなこと……」
「あるんだよ!」
張り裂けるような声だった。
「今までずっとそうだった、小学校の時も中学校の時もみんな私のこと面倒くさがって捨てて……!視聴者たちだって結局いなくなった……!」
止まらなかった。
一度溢れた感情は、抑えようとしてもこぼれ落ちてしまう。
「お前もどうせそうなんだろ!?どうせいつか面倒くさくなって捨てんだろ!分かってんだよ!」
喉が痛い。
涙で視界は滲み、彼の輪郭さえぼやけていく。
理解している、自分の発言がめちゃくちゃなことくらい。別に誰も悪くない、悪いのは未熟で青くて自制を知らない自分の心だけ。
そう奥底では理解しているからこそ自己嫌悪は加速していく。
「……こんな無価値な私のことなんて誰も愛してくれないんだよ」
吐き捨てるように零した、息が切れる。
しかしそんな私を翔気は真っ直ぐな目で見つめていた。
いつもならこんな暴言吐けば人はいなくなる。
「引くわ」「江蜜ってそんなやつだったんだ」とか言って。
昨日なんて一気に10人が私の元を去った。2年間を共にしていた視聴者たちだったのに。
……なんでお前はまだいなくならないの?
翔気は私の言葉を受け止めると、静かに、でも少しだけ嬉しそうにぽつり、ぽつりと語り始めた。
「俺さ、未来が凄く不安なときがあったんだ。どうすればいいのか、そもそもこんなことやっていいのかすら分からなかった。でも江蜜さんのただ優しく受け止めてくれるような声を聞いて、頑張る勇気を貰ったんだ。」
言い返そうと思えば、いくらでもできるくらい静かで優しい声。
その言葉はスッと私の心に溶けていった。
「無価値なんかじゃない。江蜜さんは疲れて、悩んでる人に前を向かせられる力があるんだよ。」
世界が一瞬だけ静かになった気がした。
風の音も、虫の声も、何も耳に入ってこない。
ただ、その一言だけが何度も胸の奥で反響していた。
そんなこと、そんなこと今まで誰にも言われたことがない。
父にも、友達にも、画面の向こうの視聴者にも。
誰一人として。
「……私が?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
理解できない、どうしてそんな結論になるの。私は人を困らせてばかりで、嫌われてばかりで。
なのに、この人は。
迷いなく「価値がある」と言ってのけた。
その真っ直ぐな瞳を見ていると、どちらがおかしいのか分からなくなる。
私が間違っているのか。それとも、この人がおかしいだけなのか。
「江蜜さんの努力家なところが好きだ、耳かきだけじゃ飽きる人もいるからって、タッピングしたり、炭酸の音使ったり、水の音試したり。」
「……え?」
「コメントもちゃんと読んで、その日の空気で話し方も少し変えてるところとかさ、尊敬しかないよ」
思わず瞬きを繰り返す。
確かにそれは誰にも気づかれないで積み重ねてきた工夫。毎日、飽きられないように必死で考えていたことだ。
なぜそれをこの男は……?
「江蜜さんの見た目が好きだ、小柄で小動物みたいに可愛いのにふとした時に見せる物憂げな表情に心打たれるんだ」
息が止まる。
見た目を褒められたのはいったい何年ぶりだろうか。
インターネットにどっぷり浸かるようになってから、そんなこと言われたことなかった。
「江蜜さんの声が好きだ、その優しく包み込んでくれるような声を聞いてると悩みとか無くなっちゃうんだ」
なんで……そんなところまで好きって言ってくれるの。
意味がわからない。
「……なん……で」
気づくと声に漏れていた。
「確かに不安定で危ういところもある。でも俺はそんなところも含めて江蜜さんの全部が好きなんだよ」
「う、嘘……ッ」
「嘘じゃない」
「だって、そんなこと……そんなこと言われたことない!」
「じゃあ俺が最初だよ」
「……ッ」
息が詰まる。
「好き」それは私がずっと欲しがり続けていた言葉。
孤独な家でも、疎外されていた学校だとしてもその言葉があるだけで生きていけた。
しかしその言葉を言っているのは……
震える唇を動かす。
「そんな……こと、信じ……られるわけ……ッ!」
声が崩れる。
信じたい、でも信じた先でまた捨てられるのが怖い。
期待することが、何より怖かった。
「江蜜さん……」
翔気がゆっくり一歩近づく。
そのたびに砂利が小さく鳴る。
そして、背中に隠していたものを静かに前へ差し出した。
「受け取って、これが俺の気持ちだよ」
月明かりを受けて、一輪の花が静かに揺れていた。
そのルビーのように真っ赤な花弁は月明かりの下で、どこか不自然なくらい鮮やかな色をしていた。
「……赤い……アスマル?」
自分の目を疑った。
幼い頃の母との思い出の花。
何度夢見ても見つけられなかった花。
永遠の愛を約束するという、あの赤いアスマルだった。
「今日学校休んで探し回ったんだ。街の花屋さんにどこに咲いてるか聞いて……山の中走り回ってさ」
そう言って翔気はなぜか少し気まずそうに笑った。
その笑顔につられて視線を落とす。
制服の袖は泥で汚れ、手の甲には細かな擦り傷がいくつも残っていた。
草木で切ったのだろう。
その傷一つひとつが、今日一日の軌跡のように思えた。
胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
どうして。
どうして、この人はここまでしてくれるの。
こんな面倒で、重い、私なんかのために。
理解できなかった。
「色々偉そうなこと言ったんだけどさ、実は俺もメンタル強くなんてないんだよね、ただ江蜜さんとかの前では強がってただけ。部屋に一人でいると不安になっちゃうし、未来のこととか目を閉じたくなっちゃう……昨日江蜜さんにスルーされたことだって実は結構傷ついてたんだよ?」
そう言って小さくはにかんだ。
「でもそれってたぶん普通のことだと思うんだよね。不安は消えないし、人は怖い。それが普通だよ」
翔気はもう手が届く距離にいた。
「だからさ俺と一緒に歩いてくれないか?1人でいるのが不安な2人同士、支え合ってみないか」
その笑顔は不思議だった。
励ますような笑顔でも、哀れむような笑顔でもない。
「一緒に怖がろう」そう言っているような笑顔だった。
頬を伝う涙は、もう拭うことすらできなかった。
「もう一度言うよ江蜜さん……俺と付き合ってくれ」
その瞬間だった。
気づけば私は走り出していた。
考えるより先に身体が動いていた。
赤いアスマルを潰さないように、震える腕で翔気を抱きしめる。
胸に顔を埋めると、土と汗と、ほんの少しだけ花の匂いがした。
その全てが温かかった。
「うっ……あぁ……っ」
もう我慢なんてできなかった。
子どものように泣いた。
今まで誰にも受け止めてもらえなかった涙を、今まで誰にも言えなかった寂しさを。全部、全部吐き出すように泣き続けた。
翔気は何も言わなかった。
ただ震える私の背中を何度も優しく撫でてくれている、その温もりがさらに涙を誘った。
しばらくして。
私はしゃくり上げながら、小さく呟く。
泣き顔なんて見せたくないのに、涙は止まってくれない。
「……ねぇ」
「うん?」
翔気が優しく返す。
私は服をぎゅっと掴んだ。
「……後悔」
少し間を置いて。
「あとで……後悔、するかもしれない……よ……?」
彼は一瞬目を丸くして。
「そんなことするくらいなら、最初からここに来てないよ」
そう言って彼はにこやかに笑った。
月の光に照らされたその笑顔につられて、私も少しだけ笑ってしまった。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。
それでも、母が死んで以来初めて誰かの前で安心して笑えた気がした。
◯
その後、江蜜が泣き止むまでしばらく背中をさすったり出来るだけ優しい言葉をかけ続け、もう大丈夫だろうと判断したところで自宅まで送っていき別れた。
家に帰ると時刻は11時を過ぎており、母はリビングでテレビを見ていた。
「ただいま」とさりげなく声をかけ自分の部屋に向かおうとすると母が呼び止めた。
「おお翔気ぃ、夜遊びかあ?」
「違うよ」
「まあ翔気も若いしな、遊ぶのはいいがほどほどにしとけよ?特にゴムは絶対……」
「違うよ!!」
「なあんだつまんねぇの」
酔っているのだろうか、親の下ネタは生々しいからやめてほしい。
母は見ていたドラマが終わったようで、テレビのリモコンをぽちぽちと押して次に見る番組を見定めている。
「あ、そういや結局探してた花はどうなったんだ?」
ソファから頭をぐるんと垂らしてこちらを向く。
「今日ずっと花探して街中駆け回ってたろ?朝っぱらから学校休むと聞いたときはついにグレたかと思ったが」
「そんなことないよ」
「なんだっけ?あさ……あし……あせ……あそ……」
「アスマル」
「そうそれ!」
母は思い出せない引っかかりが取れてすっきりしたようだ。満足そうな顔をしている。
「……で見つかったのか?」
俺は少し俯き、首を横にふる。
「そうかあ、残念だったな。でも頑張って探してたんだろ?あんな必死な翔気は初めて見たよ、なんなら買ってきてやろうか?」
「いやその件はもう終わったから大丈夫だよ、ありがと。それより俺これから片付けしなくちゃだから」
「おうーそうか悪かったな引き止めて、がんばえー」
そう言って手をぱたぱた振る母を尻目に俺は階段を登る。
「クソ兄貴」
翔華の部屋を通り過ぎようとした時ドアが少し開いた、隙間から顔を出した妹に不満そうな声で呼び止められた。
「なんか部屋臭いんだけど、シンナーっぽいっていうかさ」
「ああごめん、とっとと片付けるから」
「ふん、匂い私にまで付いたらまじ殺すかんね」
そう言ってバンと扉を閉められた。
俺は自分の部屋の扉を開け、部屋中に置いてあるペンキと着色剤を外に持ち出し倉庫にしまう。
部屋に散乱している新聞紙や青と赤が混ざったアスマルの花をゴミ箱に捨てる。
汚れた筆を一階の洗面所で洗っていると、スマホから通知が鳴った。
『おめでとお♡2人目の彼女攻略完了でーす♡いやあおまえもなかなかやるわねぇ♡次の共鳴体の情報は明日の6時くらいには連絡すっからまっててね♡』
メッセージをしばらく見つめ、スマホの電源を切った。
洗面所の窓からは月明かりが見える。
さっきまでは晴れていたのに、今は雲が月にかかっておりせっかくの満月が台無しだ。
手に持っている筆をジッと見つめ、ぽつりと呟く。
「……ごめん」
誰に向けたのかも分からない小さな謝罪は流水の中に消えていった。
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