最悪の結果
教室の空気は、やや異様だった。
先ほどまでの張り詰めた緊張感は薄れていたはずなのに、どこか息苦しさが残っている。
「翔気、ここってさ」
「あ、ああ……そこはこっちだ」
愛に尋ねられた項目を確認しながら、俺は資料へ視線を落とした。
まるで何事もなかったかのように。
先程「信じてみる」と言ってぎこちなく笑った彼女の表情が頭をよぎる。
浮気はバレなかった、疑いも晴れた。
そのはずなのに、俺の胸中はまったく晴れやかにはなれなかった。
「……これで合ってる?」
「うん、合ってる」
「そう」
ふと、机の上に伏せて置かれたスマホへ目を向ける。
真っ暗な画面に自分の顔が薄く反射している。ひどい表情だった。
「翔気?」
「……あ、ごめん。なんでもない」
慌ててスマホをポケットへしまう。
その瞬間、ドアが空いた。
「おぉーい、卜返いるかぁ?」
気怠そうな先生が教室に入ってきた。
「あ、はい」
「おぉいたか、おまえちょっと部室まで来い。部活のことで話あるから。」
眠いのかあくびをかきながら手招きする。
たしか愛は水泳部に入っているんだったか。この前の昼休みに聞いた気がする。
それに対して愛は少し困ったような顔でこちらを見た。たぶん途中で抜けることに少し抵抗があるのだろう。
「別に大丈夫だよ、ちょっと抜けるくらい」
「わかった、ごめん、ちょっと行ってくる」
そう言って愛は教室を出て行った。
ガタンと扉が閉まる音と同時にシンとした静寂が訪れる。
俺は無心で作業を続ける。
「翔気くん」
すると江蜜が声をかけてきた。
「ん?どうし……」
カツ。
何か硬いものが机に当たる音がした。
視線を落とす。
江蜜がコンパスを持っていた。
先日の模造紙にイラストを描くので使っていたやつだ。
銀色の針先が、夕日に照らされて妙に鋭く光って見える。
「……江蜜さん?」
返事はない。
彼女はただ、じっとこちらを見ていた。
いつもの柔らかい笑顔。そのはずなのに目だけが暗く染まっていた。
「さっきの卜返さんとの話」
心臓が嫌な音を立てる。
「あすまるのこと好きじゃないって、本当ですか?」
妙に静かな声だった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ確認するような。
「えっと……」
「ただのネッ友って言ってましたよね?」
「まあ、そうだけど」
「好きじゃないんですよね?」
言葉が詰まる。
好きじゃない。
確かに愛の前ではそう言った。だがそれは……
「……翔気くん?」
江蜜が少しだけ首を傾げる。
返事を待っている。ただそれだけなのに、逃げ場がない気がした。
「いや、その……」
言い淀んだ瞬間だった。
ドンッ!
机が大きく揺れた。
「ッ!?」
思わず身体が跳ねる。
コンパスだった。
彼女が握っていたコンパスの針が、俺の机に深々と突き刺さっている。
木の表面に小さなヒビが入っていた。
教室が静まり返る。
「……あ」
彼女がコンパスを見る。
まるで今気づいたみたいに。
「ごめんなさい、手が滑っちゃいました」
そう小さく笑いながらコンパスを引き抜いた。
ギギッと嫌な音が鳴った。
言葉を失っている俺を見て、また微笑む。
「それで」
「……え?」
「好きじゃないんですよね?」
同じ質問、さっきと全く同じ声。
「それってさ、騙してたってこと?」
ぞわり。
口調が変わった。
「え、いやその……」
思わず席を立とうとする。
だが足がもつれ、椅子ごと床へ転がった。
ガタンッ、と大きな音が教室に響く。
彼女は床にへたり込んでいる俺の元へゆっくりと近づいてくる。
「ねぇなんで何も言わないの?」
聞いたことのある声だった。
柔らかくて、甘くて。夜ごとイヤホン越しに聞いていた声。
心臓が嫌な音を立てる。
頭の中で点と点が繋がっていく。
「あすまる……?」
思わず名前が零れた。
彼女は否定せず、ただ静かに笑った。
「やっと気づいたんだ」
背筋が冷える。
笑っているのに全然嬉しそうじゃない。
「あすま……いや江蜜さん、その……」
「好きじゃないんだ」
言葉を遮られる。
「え」
「卜返さんにそう言ってたもんね」
静かな声でそう言った。
「違うんだ」
「何が?」
「俺は本当に……」
「好きじゃないんでしょ?」
逃がさないように。喉元へ刃を突きつけるように。
「それは……」
言葉が出ない。
愛の前では否定した。しかしあれは浮気を誤魔化すためだった。
じゃあ今ここで何と言えばいい?
嘘をつくのは簡単だ、しかし江蜜の目が嘘を……許してはいなかった。
「……分からない」
精一杯、絞り出した言葉だった。
だがその瞬間、彼女の表情から最後の笑顔が消えた。
「分からない?」
小さな声。
「一生好きだって言ったのに?」
「江蜜さん……?」
「可愛いって」
一歩近づく。
「会いたいって」
また一歩。
「救われたって」
一歩。
「全部言ったよね?」
気づけば目の前にいた。
逃げ場がない。
「私ね、すごく嬉しかったんだよ……?やっと本当の私を愛してくれる人を見つけたって。」
肩は震えていた。
「なのに」
ドンッ!!
コンパスが机へ突き刺さる。
木片が弾け飛ぶ。
「っ!」
「好きでもないなら!」
ドンッ!!
「なんであんなこと言ったの!?」
ドンッ!!
「なんで期待させたの!?」
ドンッ!!
「なんで!?」
コンパスの針先が折れた。
教室は静まり返っている。
彼女はしばらく俯いていた。
キラリ、と机に何かが落ちる。
涙だった。
教室の床にじわりと染み込んでいく。
俺は何も言えなかった。なんて言えばいいのかも分からなかった。
彼女は袖で目元を擦った。それでも涙は止まらない。
やがてすう、と息を吸った。
そして。
「……帰ってください」
「え……」
「今日はもう帰ってください」
声は震えていた。
「でも」
「帰って」
顔は伏せたまま。
肩だけが小さく震えている。
「……お願いだから」
その声があまりにも弱々しくて、俺は逆に動けなかった。
「江み……」
名前を呼ぼうとした瞬間だった。
ガンッ!!
机が揺れた。
江蜜が拳を叩きつけたのだ。
肩がびくりと跳ねる。
彼女はゆっくりと顔が上げた。
涙で濡れた瞳、ぐしゃぐしゃになった表情。
江蜜でも、あすまるでも、今まで一度も見たことのない姿だった。
「帰れって言ってんだろ!!」
教室に怒声が響いた。
「なんで分かんないんだよ!?」
声が裏返る。
「もう嫌なんだよ!」
涙が零れる。
「顔も見たくない!」
震える声。
「話したくもない!」
息を荒げながら叫ぶ。
「もう」
ぎゅっと拳を握る。
「……ねよ」
ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
教室が静まり返る。
俺は何も言えなかった。
何を言っても今は届かない気がした。
彼女はもうこちらを見ない。
「……ごめん」
精一杯振り絞った言葉だった。
だが返事はない。
彼女は折れたコンパスを拾う。ただ黙々と木片を集め、散らばったシャー芯を捨てる。
まるで俺がそこにいないみたいに。




