江蜜亜瑠という女
俺は教室のドアを開けた。
既に放課後ということで、教室には1人しか生徒はいなかった。
いや、ここは空き教室なので人がいること自体珍しいのだが。
「浮田くん」
その生徒が少しだけ驚いたように俺の方を見つめてきた。
——江蜜亜瑠。
長い黒髪が肩からさらりと流れ、窓から差し込む夕日に照らされている。白い肌はどこか透き通るようで、細い指先は机の上に置かれたプリントをそっとなぞっていた。
声は聞き逃しそうなくらい小さいのに、不思議と耳にはよく届く。
少し気弱な性格も相まって今にも消えてしまいそうな儚さがある女子だ。
俺と同じ文化祭実行委員で最近放課後はよく行動を共にしている。
「ごめん江蜜さん、遅れた」
「い、いえ」
「いまどこまで行った?」
言いながら彼女の机の正面に椅子を持って行き、座る。
「前……決まったクラス企画に必要なものを今から調べる感じです」
「そっか、じゃあやろう」
俺は机を向かい合わせにして座る。
シャーペンを走らせる音だけが教室に響く。
俺は昔からこういう空気が好きだった。騒ぐよりも静かな方が落ち着く。
だから江蜜と一緒にいると、妙に肩の力が抜ける。
変に距離を詰めてくることも必要以上に喋ることもない。だけど俺がミスしているときはしっかりとフォローしてくれる。
「そこ……数字、違います」
「あ、ほんとだ」
「……はい」
こんな感じで。
それになにより彼女は声が落ち着く。
ゆったりしていて、でもスッと心に入ってくるような……
ピコン
「ん?」
突然、机に置いていた俺のスマホが光った。
『ばんこうそうさんが返信しました。「初見さん、ぜひ沼って下さいw」』
YouTubeの通知が来たようだ。
たぶん昨日あすまるのアーカイブに『初見です、癒されます』とコメントしたのでそれの返信だろう。
見られたらちょっと恥ずかしいな。
そう思い、江蜜の方を確認すると、ガッツリガン見していた。
カチッ
思わずスマホを切ってしまった。
……恥ず、そんなガン見までしないでくれよ。
俺の予想では彼女はこういう所では見て見ぬふりくらいはしてくれる子だと思っていたが。
……というかよく見ると固まっている、ガン見の体制のまま。
なんだこれ。
「江蜜さん、どうしたの」
「……ッ!」
声をかけると彼女はハッと我に帰った。
「な、なんでも……ないです」
「あ、はあ」
どう見てもなんでもある。
だがよく分からない、なぜ俺のスマホを見てそんな反応を?
……そんな面白いホーム画面だったろうか。よく分からないな。
俺は首を傾げながら、もう一度プリントへ目を落とした。
静かな時間が、またゆっくり流れ始める。10分ほど経った頃だった。
「……あの」
「ん?」
江蜜は手を止めたまま、何度か俺と机を見比べている。
「あすまる……ですよね、さっきの」
心臓が跳ねる。
「知ってるの!?」
「はい……ASMRの人ですよね。……あ、私もよく聞いてます」
あすまるはチャンネル登録者500人ほどの小規模なチャンネルだ。
まさか知っている人がいるとは……
江蜜は指をもじもじさせている。
「……好きなんですか?」
「ああ、知ったのは昨日からなんだけど、声が可愛くてすぐチャンネル登録しちゃったんだよね」
「可愛い!?……そう、なんですね……」
彼女は顔を赤らめ、にまにまして「可愛い……可愛い……」と反芻していた。
今までの静かな彼女からは想像がつかない表情だ。
そんなに同士に会えたのが嬉しかったのか。まあ500人だもんな。
「江蜜さんも好きなの?」
「あ、好きっていうか……いや、好き……ですね」
なんだかしどろもどろだ。
そこからは江蜜とあすまるのオススメ動画やらを語りあった。
いままで結構他人行儀だった彼女とひとつ趣味が合うだけでこんなに話せるようになるとは。
今日だけでかなり仲良くなった気がする。
そうして気づくと下校時間になっており、作業は明日に持ち越しとなった。
◯
薄暗い部屋。
時計は21時を差す。
少女は緊張したようにヘッドホンを押さえ、マイクへそっと息を吹きかける。
「ん……みんな、昨日ぶりだね」
優しく、甘く、耳元で囁かれているような柔らかい声。
「今日も来てくれてありがとう。初見さんも、いつも来てくれるみんなも、いっぱいゆっくりしていってね」
コメント欄がゆっくり流れ始める。
『こんばんは!』
『待ってました』
『今日も癒やされに来た』
少女は嬉しそうに目を細めた。
「ふふ……ありがとう」
マイクへそっと吐息を吹きかける。サァ……という小さな音がに広がる。
「マイク買い替えたんだ、だから今日はいつもより良い音出せると思うよ」
耳かきを手に取る。
コリ、コリ……
一定のリズムで優しく音を立てる。
「嫌なことがあっても、今日は忘れちゃお?」
コメント欄には次々と文字が流れていく。
『今日も天使、あすまるは俺の生きがい』
『仕事終わりに助かる、いま電車で聞いてますw』
『寝落ち確定』
『声ほんと好き、いつも癒されてるよー』
少女は照れくさそうに笑った。
「そんなに褒めても……なにも出ないよ?」
そう言いながらも、口元は自然と緩んでいた。
『男に媚びた喋り方きっつw顔出しもしねぇで声だけとか喪女確定w』
一瞬だけ、コメント欄を見つめる時間が長くなった。指先が少しだけ止まる。
それでも、何事もなかったようにマイクへ息を吹きかけた。
「ありがとう、大好きだよみんな」
少しだけ息を混ぜて囁く。
「だから安心して……あすまるは、どこにも行かないから」
◯
えみある@裏アカ女子
配信終わった。
えみある@裏アカ女子
今日も疲れたーまじしんど
えみある@裏アカ女子
喪女じゃねぇし
えみある@裏アカ女子
男に媚びてるとか意味不明なんですけど
えみある@裏アカ女子
はあーイラつく
えみある@裏アカ女子
わざわざ配信来てまでアンチすんなし、ほんとなんなのああいうやつらって……
えみある@裏アカ女子
つら
えみある@裏アカ女子
あーもう死のっかなあw
えみある@裏アカ女子
てか私が自殺して配信いきなり辞めたらどうなんだろ?やっぱ皆泣いてくれるかなw
えみある@裏アカ女子
まあ私過疎配信者なんですけど(泣)
えみある@裏アカ女子
もっと見てほしいなあ、やっぱつべじゃなくてついっちとかに移行すべき?
えみある@裏アカ女子
えてかさ今日久々にリアルで人と喋ったわ、先生以外話し相手とかいなかったのに、まじ奇跡。
えみある@裏アカ女子
しかもリスナーだったしwやばい
えみある@裏アカ女子
でも向こうはただのクラスメイトくらいにしか思ってないんだろなー、私だけ嬉しがってんの今思うとキモくねw
えみある@裏アカ女子
でも人と話すのってストレス発散になるわー、まじで今まで配信とオナニーくらいしか生きがいなかったw
えみある@裏アカ女子
エロ配信でもすれば人集まっかな?
えみある@裏アカ女子
まあ私はいい子ちゃんなのでそんなBANされそうなことしませんけどねw
えみある@裏アカ女子
でも肌くらいなら見せてもいいかも
えみある@裏アカ女子
なんちて
えみある@裏アカ女子
あーあ、誰か私のこと好きな男子いないかなー?
えみある@裏アカ女子
私のことだけをずっと愛してくれる王子様いないかなー?
えみある@裏アカ女子
……いないから配信なんてやってんだけどね(泣)




