第72話
どさりと、何かが自分の体に重くぶつかる衝撃を感じた。
目を瞑り、死を待っていたアキトは、意識が途切れていないことに困惑した。痛みはない。弾丸はどこへ消えたのか。腕が良すぎて、感覚を失うほど一瞬で即死したのだろうか。だが、それにしては思考が鮮明すぎる。
おそるおそる目を開くと、視界いっぱいに白い布が広がっていた。ミサキが、自分に抱きついていた。
「……ミサキ?」
なぜ、彼女が自分を抱きしめているのか。その理由を脳が処理するよりも早く、ババが驚愕に目を見開くのが見えた。ババは一瞬、彫像のように硬直したが、すぐに修羅の形相に変わると、再びピストルを構え、アキトに真っ直ぐ向けた。
だが、撃てない。射線上にはミサキがいる。手元が狂えば彼女に当たる。だから躊躇したのだろう。ババの手は細かく震え、その額には大粒の汗が浮かんでいた。
直後、二発目の銃声が謁見の間を震わせた。
ババの動きが止まる。彼は天を仰ぐようにのけぞると、口から大量の鮮血を撒き散らし、そのまま背後の石床へと倒れ込んだ。
視線を上げると、先ほどババたちが入ってきた扉にライフル銃を構えた女、リョウカが立っている。誰のものともわからない血が顔につき、肩で激しく息をしながら、彼女はライフル銃を両手でしっかりと構えていた。放った一撃が反逆者の胸を貫くことを確認すると、すぐにレバーを引き、次弾の装填を行う。
ババの部下たちが我に返り、銃をアキトに向ける。だが、リョウカの声がそれを制するように一喝した。
「すぐに近衛兵がやってきます。速やかに銃を捨てなさい!」
その言葉には応じない。真っ直ぐ向けられたピストルが二丁に増える。だが、狙いが定まらず、明らかに動揺している様子が見て取れる。
三発目の銃声は再びリョウカの手から放たれ、二人目の兵士の首を撃ち抜いた。
そして四発目が放たれる前に、近衛兵が部屋に飛び込み、最後に残ったババの部下を取り押さえた。すべてが終わったのだ。助かった。リョウカが、間に合った。
アキトは安堵と共に、自分を抱きしめているミサキを抱き起こそうとした。
「ミサキ、もう大丈夫だ。ババ隊長は……」
言いかけて、言葉が止まった。アキトの腕の中、ミサキがごほりと赤黒い血を吐き出した。彼女の服の背中側が、じわりと、どす黒い染みに覆われていく。
「え……?」
ババは確かに銃弾を放った。自分を殺そうとした。けれど自分は生きている。そして、ミサキが血を吐いている。アキトの手が、じっとりと熱い液体で濡れていく。それが彼女の体内から溢れ出した命であることに、まだ脳が合点を付けられない。
「ミサキ……ミサキ?」
アキトは、震える声で彼女の名前を呼んだ。ミサキは苦しそうに喉を鳴らしながら、それでも、穏やかな微笑みを浮かべてアキトを見上げた。その瞳には、何かをやり遂げたような、深い安らぎだけが宿っていた。
「将軍様……この国を、みんなを……どうか……お願いします……」
彼女の指先が、震えながらアキトの頬に触れた。そして、誰にも聞こえないほどの小さな、吐息のような声で。今日まで頑なに、一度たりとも呼ぶことのなかったその名を、彼女は初めて口にした。
「――アキト……」
その瞬間、彼女の手から力が抜け、指先が力なく滑り落ちた。瞳から光が消え、ただのガラス玉のようになっていくのを、アキトは至近距離で見つめていた。
「…………」
声が出なかった。叫び方も、泣き方も忘れてしまったかのように。目の前で起きた事象が、自分の知っている世界の理屈をすべて踏みにじっていく。
アキトの視界が、急速に色を失い、闇へと落ちていった。




