第73話
宮殿を包んでいた凄惨な硝煙の匂いは、数日間の冬の風にさらわれ、代わりのように冷たく重い沈黙が回廊を支配していた。
歯車は止まっていた。それまで絶えず回り続けていたはずの機構は、軸を失い、音を立てることすらなかった。蒸気も鳴らない。誰にも邪魔されないまま、時間だけが何日も過ぎていった。その間、アキトは亡霊のように何度も惨劇の舞台を訪れた。
石畳にこびりついた血痕は、いくら洗っても完全には消えない。それは、あの場にいた者たちの記憶も同じだった。
ある日、アキトは執務室の椅子に深く沈み、窓の外を眺めていた。冬の日は短く、世界はすでに灰色の影に飲み込まれようとしている。背後からは、リョウカの抑制された声が聞こえてきた。今回の反逆に関する、最終的な顛末の報告だった。
「……宮殿の人員のうち、死亡したのは六十名。重傷十五名、軽傷が四名です」
リョウカの報告は淡々としていた。だが、その言葉の端々には、守られるべき対象であったアキトに対する複雑な感情が滲んでいる。
「反逆に加わったのは、首都防衛隊隊員の総勢四十七名。死亡したのはババ隊長を含め六名。残りは近衛兵によって捕縛され、現在、地下の牢獄に収容されています」
リョウカは一度言葉を切り、手元の書類を強く握りしめた。
「それから……護衛官筆頭も、地下へ送りました。彼女は今回、護衛の任務を完全に放棄し、戦闘に加わろうともしませんでした。反逆者達と内通していた疑いがあります」
リョウカは、ミオの名前を口にすることさえしなかった。それは以前からのことではあったが、今の突き放したような物言いは、単なる不仲を超えた、深い失望と断絶を感じさせた。
アキトは何も言わず、ただ窓の外の闇を見つめ続けていた。今の彼には、リョウカの正論に反論する気力も、ミオを庇う資格もないように思えた。沈黙が重く、執務室の空気を押し潰していく。
リョウカは言い淀んでいた。アキトの様子を見て、話を続けるべきか、それとも別の話題に変えるべきか。彼女は何度か口を開きかけ、そのたびに適切な言葉を見つけられずに飲み込んだ。
「……奥方様のこと、ですが」
ようやく絞り出した声は、ひどくぎこちなかった。
「その……これからのことについては、すべて私が手配を進めておきます。将軍様は、少し、お休みになられた方が……」
「葬儀」という言葉すら、今の彼には毒になると判断したのだろう。だが、気遣おうとすればするほど、二人の間の距離感の歪さが浮き彫りになった。かつてのように背中を預け合える関係は、もう二度と戻ることはないように思えた。
アキトは、首が折れた人形のように、ゆっくりと力なく頷くことしかできなかった。
いまだに、なぜミサキが自分を庇うような真似をしたのか、アキトには分からなかった。自分にはその資格など微塵もなかったはずだ。彼女が自分を好いていたはずはない。彼女の、『妃としての役割を何一つ果たせていない』というあの言葉は、アキトを責める言葉に聞こえた。彼女を顧みなかったせいであり、彼女の心を殺していたのは自分
はずなのだ。なのに、どうして彼女は、最期にあんな微笑みを浮かべ、あんな言葉を遺せたのか。
思考が果てしない堂々巡りを繰り返していた、その時。扉が、遠慮がちだが確かな意思を感じさせるリズムでノックされた。リョウカが入室を許可すると、現れたのは、一人の老婆だった。
見知らぬ顔だったが、その腕には今回の戦闘で負ったのだろう、痛々しい包帯が巻かれていた。老婆はアキトの前まで進むと、深々と頭を下げた。
「ミサキ様の従者でございます。この度は、奥方様のご逝去に際しまして、心よりお悔やみ申し上げます」
アキトはまた、力なく頷いた。老婆は一度、アキトの虚ろな瞳をじっと見つめると、懐から大切そうに布に包まれた何かを取り出した。
「あの子には、後でこっぴどく怒られてしまうかもしれません。けれど、あの子はいつからか、思ったままの言葉を話さなくなりましたから……。どうか、将軍様に読んでいただきたくて。こちらを、お渡しに参りました」
差し出されたのは、一冊の日記帳だった。宮殿の奥方に相応しい上等な皮表紙のノート。しかし、その中央には、整った装丁を汚すかのように、激しい、いや、恐ろしいほどの筆圧で文字が書き殴られていた。
『勝手に読むな』
それは警告であり、あるいは悲鳴のようにも見えた。その下には、何度か見たミサキの完璧な筆跡とはかけ離れた幼稚な文字で、彼女の名前が記されていた。
ミサキ・アサクラの日記
「これを、僕に……?」
アキトの声は、自分でも驚くほど震えていた。
「はい。もし、あの子の本心を知りたい。そう思っていただけるのであれば……」
老婆は静かにそう言い残し、部屋を辞していった。リョウカも、主君に一人になる時間が必要だと察したのだろう、複雑な表情を浮かべたまま一礼し、静かに後に続いた。
残されたのは、アキトと、机の上に置かれた一冊の日記だけだった。『勝手に読むな』。その挑発的な拒絶の言葉が、今の自分には、彼女がこの世界に遺した最後の手がかりのように思えた。
アキトは、血の気が引いた指先を、冷たい皮表紙の端にかけた。この表紙をめくれば、もう二度と「今の自分」には戻れない予感がしていた。それでも、彼は彼女が最後に呼んだ「自分の名前」の正体を知らなければならない。本当にこれを読むかどうか、ちゃんと考えるべきだ。そう思いながらも、濁った思考がそれ以上の葛藤を放棄し、指が勝手にページを開いた。




