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第67話

宮殿の静寂を、悲鳴が切り裂いた。ミオはその音を、自室のベッドの上で膝を抱えながら聞いていた。 大きな虫が目の前を通り過ぎただけかもしれない。大袈裟だ。宮殿は所詮はいいところで育った淑女の集まりなのだ。虫との暮らしはミオにとっては日常だった。恐怖を捨てる訓練と称して、虫でいっぱいの壺に閉じ込められたこともあったことを思い出す。壁をびっしり覆うムカデの光景が脳裏に浮かぶ。それを頭から追い出すように目を瞑りゆっくりと深呼吸を繰り返した。


ミオの鋭敏すぎる感覚は、壁を伝う振動だけで外の状況を冷徹に分解していく。――軍靴の音。それも、統率された集団の足音だ。 ――1、2、3。長年の経験から、無意識で歩く人の数を数え始める。正面から堂々と、迷いなく踏み込んでくるその動き。この宮殿の構造を熟知した者たちだ。ただの将校の会議ならこれほどの集団では動かない。これはどこかの部隊による軍事行動だ。


(……行かなきゃ)

 

脳が反射的に最適解を叩き出す。今すぐここを飛び出し、先頭の兵士の喉笛を掻き切る。相手が何人いても、宮殿の複雑な回廊と死角、そして自分の素早さがあれば、この人数であっても負ける気がしなかった。


「……おかあさん」


 立ちあがろうとした瞬間、耳の奥で、あの声がリフレインする。  燃え盛る火の中で、自分が感染者ごと焼き払ったあの家から聞こえた、小さな子供の、裂けるような最期の叫び。


 手がいうことを聞かず、掴んだシーツを離さない。動けという脳の命令を、身体が、そして心が拒否していた。


 ミオには分からなかった。今まで、何十人、何百人と殺してきた。老人も、屈強な兵士も、泣き叫ぶ女も、同じように刃にかけてきた。なのに、あの日。どうして自分と同じかそれ以下の年齢だったあの子供の声だけが、こうも執拗に脳裏にこびりついて離れないのか。


(……怖い)


 扉を見つめる。その向こう側には、訓練された男たちが武器を手に歩いている。今の自分には分かる。躊躇は動きを鈍らせる。剣を振るう瞬間、あの子供の声が聞こえてきたら、迷いなく首を刎ねられるだろうか。命を何の躊躇いもなく奪うことができる。それが体格も力も大きく劣る自分が、今まで大人達を容易に葬ることができていたただ一つの理由だ。命のやり取りをする場において、その一瞬は、ミオにとって死の宣告だった。


 施設にいた頃、執拗に叱られたことを思い出した。昔から痛いのが苦手だった。叩かれれば恐怖を覚えた、皮膚を斬られれば泣いた。誰よりも早く。相手に動く間も与えず、叩っ切る。それが痛みに対する恐怖から逃れるために編み出した、ミオの戦い方だった。施設の「商品」達は、殺すだけでは不十分だった。必要があれば、肉の壁として一瞬の躊躇もなく、その身を捧げることを求められる。だが、彼女にはそれができなかった。施設の大人達からは、散々「欠陥品」だと罵られ、罰せられてきた。それが、彼女の拭いきれないコンプレックスだった。


 そんな彼女を拾い、「殺せればそれでいい」と言ってくれたのがアキトだった。 アキトにとっての「剣」である限り、アキトの隣にいることが許される。殴られることはない。虫がほとんどいない柔らかい寝床が与えられる。味のする料理が与えられる。それがようやく得られた自分にとっての居場所だったのだ。


 今の自分は「剣」としての価値はない。殺すことができない。死ぬのが怖い。痛いのが怖い。

腹を蹴られ、骨を砕かれ、首を跳ねられる。 これまでは想像することすらなかった「自分自身の欠損」のイメージが、鮮明な色を伴って脳内に溢れ出す。


(アキト様……ごめんなさい。あたし、無理だ……)


 ミオは震える声で、謝罪した。アキト様は、何一つ役に立たない私を、きっともう必要としない。居場所が消えていく恐怖と、殺されることへの生理的な恐怖が混ざり合い、ミオをベッドの上に縫い付けていた。

 

外でまた一つ悲鳴が上がった。誰かはわからない。だが確実に聞いたことがある声だった。ミオは耳を塞ぎ、ベッドの隅でさらに小さく身を縮めた。


 宮殿が誇る最強の剣は、鞘の中で震えていた。自分を振り回すことへの恐怖に負け、主人が最も自分を必要としたその時に、ただの「臆病な子供」として暗闇に蹲り続けていた。


 廊下を通り過ぎる軍靴が部屋の前で止まる。扉が開き、やがて彼女の部屋を素通りし、謁見の間の方へと遠ざかっていく。ミオは暗い部屋の中で、ただ自分の心臓の音を聞いていた。それは、あの日焼き殺した子供の声と同じ、激しく、不快で、そして生々しい「命」の音だった。

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