第66話
宮殿の静寂は、遠くで響いた断末魔の悲鳴によって、無残に引き裂かれた。
自室で膝を抱えていたアキトの肩が、びくりと跳ねる。だが、彼の瞳に光はない。ただ、脳内では凄まじい速度で、かつて自分が焼き払った村々の光景と、今の悲鳴が重なり、パニックの濁流に呑み込まれていた。
視界が明滅する。リョウカに掴まれた腕の感覚すら遠く、廊下に落ちている女官の片方だけの靴が、かつて自分が滅ぼした村の死体が残した遺品のように見えて、胃の奥から酸っぱいものがせり上がった。
「――っ、カミシロ様! 来てください!」
血相を変えて飛び込んできたリョウカが、アキトの腕を強引に掴み、引きずるように廊下へ出た。
「何ものかが、正門から侵入しました。宮殿の主要な出入り口はすでに封鎖されており、電話交換室はすでに制圧されています。外界との連絡が取れません。おそらく奴らの狙いは、カミシロ様の首です……!」
リョウカが早口で状況を説明するが、アキトの耳には届かない。侵入者は誰なのか。賊なのか、他国の軍なのか。何も分からないまま、彼はただ、引きずられるまま、死人のような足取りで、宮殿の最奥にある「謁見の間」へと向かう。
謁見の間の重厚な扉を開くと、そこには死と暴力の気配から逃げてきた数十人の女性たちがいた。年配の女文官や、若い女官、厨房を預かる給仕たち。男たちが一人残らず戦場へ送られるこの国で、宮殿の機能を維持し続けてきたのは、彼女たちだった。誰もが事態を飲み込めていない。ただ、安全であるはずの宮殿内で、血の匂いが近づいているという異常事態に、正気を失いかけていた。
「将軍様!」「一体何が起きているのですか!?」「外にいるのは誰なのですか!」「……姉さんが……廊下で男達に刺されて……!」
絶望的な悲鳴がアキトに向けられる。だが、アキトは口を固く結んだまま、王座の前で呆然と立ち尽くすだけだった。
「カミシロ様、指示を! 奴らはもうすぐそこまで来ています!」
リョウカが叫ぶ。だが、アキトからは何の反応もない。リョウカの顔に焦燥が走る。護衛筆頭のミオがいれば……。だが、その少女の姿もどこにもない。彼女は迷いを振り切るように、集まったものたちへ向き直った。
「――静かに! 全員、宮殿の中にある武器を手に取れ! 私たちが将軍様をお守りするんだ。やらなければ、私たちも、この宮殿も終わりだぞ!」
だが、その声は震え、あまりにも弱く、副官として、軍人としての使命感のみが彼女に声を振り絞らせた。当然のように返ってきたのは、困惑と恐怖の声だけだった
「戦えって言うんですか!? 私たちは戦闘訓練なんて受けたことはないのですよ!」 「相手は誰なんですか! 私たちに死ねと言うんですか!」 「無理ですよ、死ぬに決まってる! 護衛の方達は? 護衛官筆頭のあの少女はどこにいるのです!?」
正体不明の男たちが迫る恐怖。守る人がほとんどいないという現実。パニックが頂点に達そうとしたその時。
「皆さん、聞いてください」
凛とした、だがどこか悲しげな声が、混沌とした広間に響いた。ミサキだった。彼女はアキトの隣に立ち、怯えるものたち一人ひとりの目を真っ直ぐに見つめた。
「皆さんが、怖がるのは当然のことです。私たちのほとんどは料理人や、給仕、庭師であり、兵士ではありません。外で何が起きているのか、誰が攻めてきたのかさえ分からない……それは、本当に恐ろしいことです」
その言葉を聞いて、ざわついていた人々が、吸い寄せられるようにミサキを見た。ミサキは大きく息を吸い、言葉を紡いだ。
「きっと誰かが代わりに戦ってくれる……そう思いたいのは私も同じです。ですが、数人の護衛官を除けば、男性の方々は皆、戦場にいます。今、この宮殿を、将軍様を守れるのは、ここにいる私たちだけなんです。彼らが侵入してきたのは、私たちの家です。殺された方々は一緒に働いていた、私たちの家族です……逃げれて、どこかに隠れれば、もしかしたら自分の命だけは助かるかもしれません。ですが、戦いが終わって、全てが破壊され尽くした時、今みなさんの隣に立っている方、大切な誰かの命は全て奪われているかもしれません。シノザキ副官様は将軍様をお守りせよ。そう仰いました。ですが、もしその言葉で立ち上がれなければ、どうか、私のため。隣の誰かのため。そして、私たち全員が今日まで守り抜いてきた、この国の日常のため。共に戦っていただけないでしょうか。どうか……お願いします」
誰も動かない。誰も声を発しない。ただ一人、ミサキが壁に飾ってある装飾用の剣に駆け寄り、鞘から抜いた。その感触を確かめるように刀を振る。
やがて、そのミサキの「祈り」が届いた一人の若い庭師が、震える手で近くにあった重い真鍮の燭台を握りしめた。続いて、白髪の文官が震えて動けないでいる給仕からそっとテーブルナイフを奪い取った。
「……妃様を、死なせてたまるか」 「そうだ。男たちが戦場で戦っている間、宮殿を守ってきたのは私たちなんだ……」
広間に、先ほどまでの絶望とは違う、静かな、だが確かな熱が灯り始めた。暴力とは無縁だったはずの人々が、将軍を、そして自分達の家を守る盾となり立ち上がった。




