第62話
月が、一度満ちて欠けた。 西ルガンの宮殿を支配しているのは、静寂ではなく「死臭」に似た停滞だった。
かつてこの場所には、国家を動かすための喧騒があったはずだ。だが、今のアキトにとって、壁の向こう側で起きていることなど、遠い異国の出来事よりも価値がない。廊下を歩く足音が聞こえても、それが誰のもので、何のために動いているのかを想像するだけで吐き気がした。
副官のリョウカは、もうアキトを呼びに来なくなった。 彼女がどこで何をしていようが、アキトには関係のないことだった。彼女が執務室でペンを握りしめていようが、どこかの部屋で泣き喚いていようが、あるいは死んでいようが、知ったことではない。 ただ、自分を「将軍」という役割に引き戻そうとする存在がいなくなったことだけが、僅かな救いだった。彼女が関わらなくなったのは、アキトにとって唯一の正しい選択に思えた。
(いい。それでいい。誰も僕を見なくていい。僕も誰も見たくない。僕たちは、お互いを地獄に引きずり込んだ共犯者だ。もう顔を合わせる理由なんて、どこにもないんだ)
アキトは、自らの居室から一歩も出ようとはしなかった。 そこは、少し前までは自分が寝るための場所だということすら、まともに認識していなかった部屋だ。宮殿という巨大な迷宮の中で、ただ寝るためだけに割り当てられた、名前のない箱。 かつてはそこへ戻るたびに、将軍という大役の重圧と、本物のアキト・カミシロではないという正体を見破られると言う恐怖に押しつぶされそうになっていたはずなのに。今ではそこが、アキトにとって世界で唯一の、自分を許してくれる殻になっていた。
(僕は、ここが自分の寝室だということさえ知らなかった。教えられるまで、どこで眠ればいいのかも分からなかった。それなのに、今はここから出ることができない。この薄暗い四角い空間だけが、僕に許された世界のすべてだ。外の世界には、僕が壊したものと、僕を壊そうとするものしかないから)
重厚なカーテンは昼夜を問わず閉め切られ、部屋には停滞した空気と、僅かなカビの匂いが漂っている。アキトはベッドから降りることもなく、ただシーツの冷たい感触を指先でなぞり、自分の存在を繋ぎ止めていた。
(光が痛い。音が痛い。誰かが僕を「将軍様」と呼ぶ声が、耳の奥で針になって突き刺さる。僕は、何もしていない。いや、何もしたくない。この部屋の扉を開ければ、また誰かの死が僕の肩に積み重なる。もう、耐えられない。一歩も動きたくない。呼吸すら、誰かの酸素を不当に奪っているような気がして申し訳ない。僕が吐き出す息一つでさえ、誰かの犠牲の上に成り立っている不浄なものだ)
脳内は、整理のつかない泥水のような思考で溢れていた。 みんな、死んだ。周りから、順番に消えていく。
(みんな、死んだ。みんな、消えた。僕のせいだ。僕がこの椅子に座り、何もできないくせに「理想」なんていう無責任な言葉を吐いたからだ。それなのに、僕はまだ生きている。心臓が忌々しく拍動し、喉が渇き、お腹が空く。それが、吐き気がするほど恥ずかしい。僕は、僕という存在を、この世界から消し去りたい。僕なんて、最初からいなければよかったんだ。この椅子に座らなければ、みんなまだ、どこかで生きていたはずなのに)
ミサキが、扉をそっと叩いた。
「カミシロ様……お食事を持ってまいりました。召し上がってください」
アキトはその声を聞くたびに、毛布を頭から被り、強く耳を塞いだ。 彼女の献身。彼女の優しさ。それが今のアキトには、最も残忍で、もっとも鋭利な拷問だった。
(来ないで。優しくしないで。僕を殺してくれ。……いや、それすらも贅沢だ。僕は、ただ、こうして暗闇の中で静かに朽ちていくのが相応しいんだ。僕に関わるな。僕という病気に感染する前に、早くどこかへ行ってくれ)
宮殿の廊下を、革靴の冷たく乾いた音が鳴り響く。 主人が死んでいるも同然の今、その「隙」を突こうとする影が、すぐそこまで迫っている。 宮廷を維持するための歯車は、中心部から順番に錆びつき、死滅しつつある。
西ルガンという国は、その頭脳である将軍が自ら思考を放棄したことで、暗い海を漂流している。 誰の指示も、誰の決断もない。 ただ、残された者たちが、恐怖と不安に震えながら、崩壊の瞬間を待っている。暗闇の中で、自分の罪の数を、永遠に数え続けることだけに、すべての感覚を使い果たしていた。
世界は、音を立てて崩れようとしていた,だが、今のアキトにとっては、その破滅さえも、どこか遠い。想像の出来事のように感じられていた。




