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第61話

 執務室の空気は、数日前から入れ替えられていない。  吸い込むたびに肺の奥が重くなるような、湿った紙と埃の匂い。アキトは将軍の椅子に座っている。それ以外のことは、何もできなかった。


 視界の端で、リョウカが何かを動かしている。書類だろう。紙が擦れる音。ペンの走る音。それらが一つひとつ、アキトの鼓膜を針で刺すように苛立たせる。


(黙れ。うるさい。動くな。何をしてるんだ、お前は。何を管理してるんだ。僕たちは何を管理してるんだ。死か? 誰を殺して、誰を焼いて、誰を隔離するか、そんな文字を並べて何になる。この国はもう死んでる。僕が殺した。いや、僕じゃない。僕は何もしていない。ただここに座っていただけだ。それが一番の罪だ。僕がここにいるから、みんなが「将軍の命令だ」と言って人を殺す。僕の名前は、死神の代名詞になった。リョウカ。お前もだ。お前が連れてきた兵士たちが、あの集落で笑っていた。いや、笑ってはいなかったか。泣いていたか? どっちでもいい。結局は肉の塊になった。みんな肉になった。ミオ。ミオはどこだ。あいつは壊れた。僕が壊した。あいつの手に剣を握らせたのは僕だ。いや、握らせたのはこの国か。僕か。どっちだ。わからない。どうでもいい。もう、考えるな。考えるのをやめろ)


 脳内では、とりとめのない言葉が高速で回転し、混ざり合い、真っ黒な感情の渦となって渦巻いている。アキトは自分の指先を見つめていた。白くて、細い。こんな手で、何十人、何百人の命を摘み取ったのか。


「……カミシロ様。こちらの、徴用計画の件ですが」


 リョウカの声がした。耳元で囁かれたような、あるいは地平線の向こうから聞こえるような、遠近感の狂った音。  アキトは答えない。いや、答えようとしても、喉の奥で言葉が粘ついて出てこない。


「……ああ」


 ようやく出たのは、音とも言えない掠れた呼気だった。書類の内容など、一文字も頭に入っていない。リョウカが何を求めているのかも、それが国にとってどれほど重要なのかも、今の彼にはどうでもよかった。リョウカの絶え間なく震える手が視界に入った瞬間、呪いの言葉が脳裏を支配した。


(お前も死ねばいい。僕も死ねばいい。そうすれば、全部終わりだ)


 どうしたら二人とも死ねるか。その思考を、鋭いノックが断ち切った。 入室してきた文官。差し出された紙片。それを見たリョウカが、しばらく動きを止めた。そして、感情を押し殺したような声で読み上げた。


「カミシロ様。……カツロウ・シマダ殿が、亡くなりました」


 カツロウ・シマダ。 その名前がアキトの脳を叩いた。 一瞬だけ、カツロウの不器用な男の姿が浮かぶ。


(死んだ? ……ああ、そうか。死んだのか。軍か。あの連中がやったんだ。僕がリョウカに「専門家を」なんて言ったから。僕が、彼に価値を与えてしまったから。軍が彼に何のようがある?。そして、きっと使い終わったらボロ雑巾みたいに捨てたんだ。僕が、彼をあんな場所に引きずり込んだんだ。俺のせいだ。いや、僕じゃない。軍が勝手にやったことだ。でも、僕がトップだ。僕が、止められなかった。僕が殺した。兄さん。キタハラ村長。カツロウさん。次は誰だ。みんな死ぬ。みんな死ぬ。僕のせいで殺されるんだ)


 心臓がドクンと大きく跳ねた。だが、それだけだ。 涙も、叫びも、怒りも、そこから先へは繋がらない。 悲しみを感じるための回路が、すでに焼き切れている。


(ごめんなさい。カツロウさん。申し訳ない。本当に、申し訳ない。でも、僕には何もできない。せいぜいあなたの死を心の中で悼むことくらいだ。勝手に死ね。みんな勝手に死んでいけ。僕も、すぐに後を追うから。いや、追えないのか。僕はこの椅子に縛り付けられて、永遠に誰かの死を眺め続けるのか)


「……ああ」


 アキトは、また同じ一言を漏らした。 リョウカが何かを言いかけて、弱々しく口を閉じる。彼女の瞳に、救いを求めるような、あるいは断罪を待つような光が宿っていたが、アキトはそれを一瞥するとすぐに目を逸らした。


(死ね。死ね。みんな死んでしまえ。そして僕を最初に殺せ)


 アキトは再び、視線を床のインク染みに戻した。 思考は濁り、言葉は形を失い、ぐちゃぐちゃな闇へと溶けていく。 自分が生きているのか、それともすでに死んで椅子に座っているだけの死体なのか、その境界線すら、もう、どうでもよくなっていた。

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