53話
あの一夜以来、ミサキとの関係は、文字通り元に戻ってしまった。 いや、以前よりも悪くなったと言ったほうが正しいのかもしれない。交わされるのは、最低限の挨拶と、事務的なやり取りだけ。
だが、以前のそれは「お互いを知らないこと」から来る距離だった。今は違う。お互いの覚悟と拒絶を「知った上での選択」が、そこには横たわっている。
ミサキは、子供を産むことを己の唯一の役目だと信じている。
この世界に来てから日は浅いが、かつて見た歴史劇やドラマの知識がアキトの脳裏を掠める。権力者との間に世継ぎが生まれなければ、新たな妃が迎えられ、立場を追われる。ましてここは、倫理よりも力と血筋が優先される西ルガンだ。拒絶された妃に、どのような残酷な運命が待ち受けているか、想像するだけで背筋が寒くなった。
隔離が始まり、二人きりで過ごす中で、ミサキへの印象は劇的に変わっていた。
かつては苦痛でしかなかった沈黙が、いつしか将軍という重い鎧を脱ぎ、一人の「アキト」として息をつける、唯一の安全な居場所にさえ思えていたのだ。
(……それを、自分の手で壊してしまった)
人として、倫理的に正しい振る舞いをしたつもりだった。だがそれは、将軍としての責務を放棄し、何よりミサキの積み上げてきた人生とプライドを深く傷つけるものだったのだ。
いつの日か。
この嵐が過ぎ去った後、また彼女と笑って話せるようになりたい。
今度はもっと気さくに、お互いのことを深く知り、そして――自分が本物のアキト・カミシロではないことを打ち明ける。彼女は驚くだろう。軽蔑されるかもしれない。けれど、それを乗り越えた先で、もし彼女が許してくれるなら。その時は今度こそ、偽りのない心であの手を握りたい。
アキトは、そんな淡い希望を、暗い部屋で一人抱きしめていた。
「……アキト様。シノミヤ局長だよ。面貸せってさ」
扉を蹴り開けるようなミオの報告が、思考を遮断した。
サラ・シノミヤ。彼女はいつも、アキトが深い悩みの淵にいる時に限って現れる。まるでその苦悩の香りを愉しんでいるかのようだ。もしこの世に、人の葛藤を食らって生きる妖がいるとするならば、それはきっと彼女のことだろう。
正門へと向かうと、鉄扉の向こうから、聞き慣れたはんなりとした声が響いた。
「ご機嫌よう、アキトちゃん。リョウカちゃん、元気そうにしてはった?」
パタンといつも持ち歩いている書類を入れたファイルを閉じる音がする。
僕は覗き窓を開け、規定通りに門に背を預けた。
「僕が会いに行ったら、リョウカはきっと怒るだろうからね。宮殿からは一歩も出ていないよ」
知らないはずはない。だがサラは、わざとらしく大袈裟に驚いてみせた。
「そんなぁ。うちのこと気遣ってくれはったん? リョウカちゃんみたいな小娘のところへ行っても、うちはアキトちゃんのこと嫌いになったりせんよぉ。」
「……ありがとう、シノミヤ局長。でも僕には妃がいるからね。あなたの思いには応えられない」
牽制のつもりで言ったその言葉に、サラは一瞬、真顔に戻り、訝しげな表情を浮かべた。
「……それは、結構なことやわ」
声から温度が消えるのがわかった。
「リョウカちゃんの話や」 「まさか、感染したのか?」 「いや。してへんよ」 「憲兵団と何か問題でも?」 「ちゃんと掌握できてはるわ。隊長さんより人望厚いくらいやわ」 「ならば何だ」
サラは少しの間を置き、吐き捨てるように言った。
「……もう、限界が近いで」
「……何が限界なんだ。彼女なら、上手くやっていると言ったじゃないか」
アキトの問いに、サラは小さく息を吐いた。覗き窓を盗み見ると、差し込む光の向こうで、彼女の影が少しだけ揺れた。
「リョウカちゃんはね、ほんまに優秀やわ。憲兵達も、あの子の指示一つで一糸乱れず動いたはる。……でもな、アキトちゃん。相手は一千万の人間や。目に見える『隔離』はできても、人々の心に溜まっていく『澱』までは、あの子一人では抑えきれはらへん。」
「澱……?」
「不満や、悲しみや、やりきれん怒りや。それを全部、あの子が正面から受け止めてしまってはるんや。あの子は賢いから、自分が矢面に立つことでアキトちゃんへの批判を逸らそうとしたはる。……でもな、もう限界やで。あの子の心が、いつポキッと折れてしまってもおかしくないところまで来てる。」
サラの声には、いつもの揶揄はなかった。
「このままやと、リョウカちゃんが壊れはるか、あの子の厳しさに耐えかねた民衆が暴発するか……どっちかが先にくる。そうなってからやったら、もう誰も助けられへんよ。……あの子、あんたにだけは格好悪いところ見せたくなくて、弱音も吐かずに踏ん張ってはるんや。……そんなん、放っておいてええの?」
アキトの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
自分が「将軍」という役割をリョウカに丸投げし、安全な宮殿でミサキとの生活に悩んでいる間、リョウカはたった一人で、一千万人の憎悪や苦悩をその身に受けていることを想像した。
「……僕に、どうしろと言うんだ」
「決まってるやんか。……会いに行ってあげはり。将軍のあんたが横に立って、『もういい、よくやった』って言うてあげるだけで、あの子は救われはるんやから。これは仕事やない、アキトちゃんにしかできひん『救済』やで。」
サラはそれだけ言うと、そっと門から離れていった。 追いかけようにも、アキトの手は鉄門に触れるだけで、その先を開く勇気がまだ出ない。
「……僕にしか、できない救済……」
サラの言葉は、これまでのどんな報告書よりも鮮明に、リョウカの孤独を浮かび上がらせた。
夜の宮殿に、再び静寂が戻る。
けれど、その静寂はアキトを安らげるものではなかった。外で震えているリョウカの心と、自分の不甲斐なさが、暗闇の中で重くのしかかってきた。




