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52話

ミサキに案内されたのは、宮殿のさらに奥深くに位置する一室だった。  扉が開かれた先には、アキトがこの世界で初めて目を覚ました時に使ったものとよく似たベッドが鎮座していた。だが、施された彫刻の緻密さや、天蓋の布地の質は、比べ物にならないほどの高価さを物語っている。


「……ここは?」


「カミシロ様の寝床でございます」


「え? 知らなかったんだけど。じゃあ、僕がいつも使っていたのは……?」


「あれは、ソファです」


 言葉が出なかった。  カミシロ・アキトとしてこの宮殿で過ごして数ヶ月。自分が寝室だと思い込んでいた場所は、ただの居間に過ぎなかったのか。


「カミシロ様はいつも、食事の間と居間しかお使いになりません。まだ足を踏み入れていただいていないお部屋は、あと十部屋はあるのですが……」


 ミサキの言葉には、どこか棘が含まれていた。  居心地悪そうに立ち尽くすアキトに、彼女はそっとベッドの隣に座るよう促した。沈み込むような上質な感触が、余計にアキトの緊張を煽る。


「アキト様と一緒にいて幸せか、というご質問でしたね」


 アキトは静かに頷いた。喉が渇き、生唾をごくりと飲み込む。


「この国では、将軍家に連なる男子には妃があてがわれます。その妃は、最初から一人だけというわけではありません。何十人もの女子がいる中で、選ばれるために幼い頃から厳しい指導に耐えるのです。あらゆる教養、芸事、社交の礼儀、そして美容……どこに出しても恥ずかしくない『花』になるように」


 ミサキがこれほど長く語るのを、アキトは初めて聞いた。彼女の静かな熱を孕んだ声に、ずるずると引き込まれていく。


「そこから嫁ぐ者が選ばれ、その方のことを徹底的に学びます。私がカミシロ様の妃候補になってから、あなたのことを想わない日は、一日たりともありませんでした」


 ミサキの瞳が、アキトを射抜く。


「壇上に上がった候補の中から、私を選んでくださったあの日。私の目標の一つは叶いました」


 だが、ふと彼女の表情が曇った。


「……今は、幸せではないのか?」


「妃の役目をご存知ですか。……その、ただ一つの役目を」


 答えは分かっていた。だが、言葉にはできない。  ミサキは容赦なく、自らの存在理由を言葉に紡いだ。


「将軍様の子をなすこと。お世継ぎを残すこと。……私は、そのお役に立てておりません」


 体が熱くなり、石のように硬直した。  ミサキの手がゆっくりとアキトの首筋に回され、その重みが加わる。彼女の体が沈むと同時に、アキトの体もゆっくりと覆いかぶさるように倒れ込んだ。  ミサキに掴まれたアキトの手が、彼女の胸の上に導かれる。心臓の鼓動を手のひらに感じた。


「ミサキ……」


「これだけは知ってください。……この胸も、体も、すべて将軍様のものです」


 気まずい沈黙が、重く部屋に居座った。  ミサキが愛し、毎日想い続け、そして選ばれたかった「アキト・カミシロ」という男。それは自分ではない。  たとえ姿も声も、肩書きもすべてが同じであったとしても、中身が「偽物」である自分だけは、その真実を知っている。そんな自分が、彼女の長年の献身を、この神聖な義務を利用して受け入れることは、あまりに業が深く、醜いことに思えた。


「……ごめん」


 アキトは無力感と、押し潰されそうな申し訳なさの中で、強引に立ち上がった。  ミサキの顔に、一瞬だけ鮮やかな失望の色が浮かんだ。けれど、それはすぐに消え、いつもの氷のような無表情へと戻っていった。


「失礼いたしました。……申し訳ございませんでした」


 ミサキは乱れた服や髪を淡々と整えると、深く一礼し、そのまま部屋を去った。  まだ見ぬ十部屋のうちの、どこかへ消えたのだろう。  アキトはその背中を追いかけることも、呼び止めることもできなかった。

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