第51話
自室のソファに深く身を沈めながら、アキトはさっきまで鉄門越しに響いていたサラの声に、脳内を支配されていた。
早くリョウカを労いに行け。サラはそう言った。 行くか、行かないか。そして行くならばどこへ向かうか。そのすべての決定権は今、アキトの手の中にあった。この宮殿において、自分を縛る「リョウカという枷」はもう存在しない。だが、どの選択肢を選んだとしても、扉の外には意志を持たない「剣」としてのミオが立ち、さらにその外側ではサラの張り巡らせた情報網が、自分を逃さず監視し続けているだろう。 (……結局、どこへ行っても、俺は俺から逃げられないんだ)
ならば、サラはなぜわざわざあんなことを言いに来たのか。本当にただ、同僚であるリョウカの身を案じ、アキトに慈悲を求めただけなのか。あの冷徹な女が、それほどまでに仲間思いな人間だとは、どうしても思えなかった。
いくら考えても、サラの真意という深い霧を抜けることはできない。
ふと、耳元でコップが置かれる小さな音が響いた。 意識を引き戻されると、いつの間にかミサキが目の前に立っていた。視線が合うと、彼女は柔らかく、冬の寒さを溶かすような微笑みを浮かべた。
「……気づかなかった。ありがとう」
「集中されていましたからね。邪魔をしないように気をつけていたのですが……すみません」
「いや、いいんだ。ちょっと考え事をしていてね」
「そうですか……」
ミサキの気遣いに、アキトの胸のざわつきが少しだけ落ち着く。だがそれは完全に消えることはなかった。それはアキトに思わぬ選択をさせた。
「ミサキ、ちょっと聞いていいか」
「なんでしょう」
「サラ……シノミヤ局長について、どう思う?」
その問いが放たれた瞬間、ミサキの顔からさっきまでの笑顔がスッと消えた。その落差に、アキトは心臓を掴まれたような心地になる。
「あっ、いや! 変な意味じゃないんだ。ただ、彼女はあまりに掴みどころがないというか。どう接すればいいのか、分からなくなる時があって……」
アキトは慌てて取り繕った。嘘ではなく、本当のことだ。だが、妃に対する質問としてはあまりにデリカシーを欠いていたと反省する。
幸いにもその言葉で、ミサキはすぐに表情を和らげた。
「そういうことでしたか。……失礼いたしました。」
そして唐突に言われる
「隣に座ってもよろしいでしょうか?」
反射的に照れながらブンブンと頷くアキトをよそに、ミサキは静かに隣へと腰掛けた。触れ合うほどではないが、彼女の纏う清潔な香りが、今までサラに占拠されていた思考を上書きしていく。
「シノミヤ局長は……カミシロ様が思っていらっしゃるような人ではないと思います」
「どういうこと?」
「すみません、もし見当違いでしたら申し訳ないのですが。……カミシロ様が、局長のことを『怖がっている』ようにお見受けしまして」
図星だった。アキトは思わず、小さく頷いた。
「確かに、本音を見せない方です。目的のためには手段を選ばない……そのような噂を耳にしたことはあります。ですが、私には、あの方がどうしても悪い方には思えないのです」
「そうかな」
「そうなのです。これでも私、人を見る目には自信があるのですよ」
ミサキはいたずらっぽく微笑んだ。 その屈託のない表情が、アキトの中に一歩踏み込む勇気を与えた。これは、彼女の本心を知るための、そして自分という存在を確認するための、震えるような賭けだった。
「……じゃあ、僕についてはどう思う?」
それは、サラへの問いとは全く別の、重い意味を孕んだ言葉だった。 俺が偽物だと気づいているのか。この歪な生活をどう感じているのか。そして、一人の男として、俺をどう見ているのか。 重層的な問いを投げかけられたミサキは、少しだけ目を伏せた。
「それは……シノミヤ局長の質問と同じ意味合いでしょうか?」
アキトは一瞬、言葉に詰まる。それは本心ではない。だが勢いだけで口にした質問に対する無難な解釈に慌てて飛びついた。
「あっ、……ああ。そうだ」
逃げるようにそう応じると、ミサキは再び顔を上げ、今度は慈しむような笑みを湛えた。
「怖くはありません。……お優しい方だと、思っております」
その答えに、アキトの胸はチリリと焼かれた。
優しい。それは便利な言葉だ。けれど、その言葉の裏側で、彼女は本当に満足しているのだろうか。今の俺に、彼女を幸せにする権利も資格もあるのだろうか。 アキトは膝の上に置いた手を強く握り、震える吐息を押し殺して、今度こそ踏み込んだ。
「……君は、僕といて幸せなのか?」
核心に触れる問いが、静寂を切り裂いた。
部屋の空気が一気に重さを増す。ミサキの口元から笑みが消え、その瞳が真っ直ぐにアキトを射抜いた。 長い、あまりに長い沈黙。 時計の刻む音すら聞こえないほど深い静止の中で、アキトは自分の心拍が早まるのを感じていた。拒絶されるのか。あるいは、体裁を整えた嘘が返ってくるのか。
だが、ミサキの口から出たのは、そのどちらでもなかった。
「ついてきてください」
彼女は表情を崩さぬまま、けれどこれ以上ないほど強く、アキトを招くようにそう言った。




