第50話
リョウカが宮殿の重い鉄門を抜けてから、数週間が過ぎた。
彼女がいなくなった後の宮殿は、まるで心臓を抜かれた巨人のように、静まり返り、どこか空虚な空気を孕んでいた。かつては分刻みでリョウカが持ち込んできた膨大なタスクも、今では消毒液の匂いが染み付いた伝令の封筒の中に収まり、ゆっくりとしたリレーで運ばれてくる。
伝令が持ってきた書類を誰かが受け取り、入念に消毒し、扉の外に控えるミオに渡される。そして、ミオがそのガサツな足取りで部屋に入ってきて、アキトの机に無造作に置く。それが今の、この国の「最高意思決定」の形だった。
リョウカという「規律」が不在になったことで、アキトの日常からは息苦しさが消えていた。 中庭に出るために、わざわざ彼女の許可を取る必要はない。宮殿の敷地内であれば、誰に断ることもなく自由に出歩くことができた。だが、その自由はアキトにとって少しも心地よいものではなかった。……国民には、一歩も家から出るなと言い渡しておきながら自分は、冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い、陽光を浴びている。この不平等。背中を焼き付けるような後ろめたさが、常にアキトの心を蝕んでいた。自分が偽物の将軍であるという事実は、こうした特権を享受するたびに、鋭い棘となって突き刺さる。
「お疲れ様でした」 自室に戻れば、ミサキが柔らかな微笑みを浮かべて、淹れたての茶を差し出してくれる。 交わす言葉は決して多くはない。それでも、彼女が茶器を置く所作や、ふとした瞬間に合う視線の柔らかさに、アキトは救われていた。リョウカという緊張感が消えた空白を埋めるように、二人の間に流れる時間は確実に密度を増し、穏やかなものへと変わっていた。
そんな静かな昼下がり、均衡を破るように扉が蹴破らんばかりに開いた。 ノックという概念を知らないガサツな動作。ミオだ。
「……アキト様。シノミヤ局長が面貸せってさ。今、正門に来てる」
まるで放課後の裏庭に呼び出すヤンキーのような、ぶっきらぼうな言い草。アキトは苦笑いを浮かべ、ミサキに小さく会釈をしてから部屋を出た。
正門へと続く石畳を歩きながら、アキトは背後に従うミオの気配を感じていた。
サラ・シノミヤ。あの毒婦のような情報局長なら、閉ざされた門などものともせず忍び込む術を持っているはずだ。だが、彼女は律儀に正門の覗き窓の外に立っていた。 鉄の扉を隔て、アキトは窓のシャッターを引く。そこには、相変わらず何を考えているのか読めない、艶然とした笑みを浮かべたサラがいた。アキトの姿を認めると持っている書類のバインダーをパタンと閉じて、規定に従い鉄の門に背を向けた。アキトも同じように背を向けた。
「どうした。こんな時に」
「いや、ただ近くまで来たし様子見に来ただけやん。そんな警戒せんといてよ。……うちのこと、嫌いやの?」
顔を見なくても不敵に微笑むサラの顔が浮かんだ。
「……ごめん。そういうつもりじゃない。ただ、サラは忙しいだろ、何か急用があるのか」
「忙しいけど、たまにはダーリンの顔見て癒されたいやん? 『そこはハニー、愛してる。……ずっとここにいてくれ』って言うてくれはったらよろしいのに。わかってへんなぁ。」
顔が綻ぶのに体が締め付けられる。サラと対峙するといつも相反する感情を感じてしまう。動揺を隠しながら真面目に返事をした。
「隔離だからな。用事がないならお互いとの接触はなるべく控えた方がいいだろ」
「お堅いなぁ。報告書の文字だけやったら、外の生臭い空気感までは伝わらはらへんやろ? うちがちょっとした『土産話』を持ってきてあげたんやんか。」
サラは、独り言のように語り始めた。
「まず、リョウカちゃんな。……心配せんでええよ。あの子、ようやってはるわ。バラバラやった憲兵団をものの数日で掌握して、今は規律もビシッと戻ってはる。見回りの数も倍増やで。」
アキトは安堵の息を漏らした。リョウカを死地へ送り出したという罪悪感が、一瞬だけ和らぐ。
「頑張ってはるで、あの子。アキトちゃんにええところ見せようと、張り切ってはるわ。ちゃんと褒めてあげな、あかへんで?」
「……ああ。無事に帰ってきたら、そうするよ」
アキトの答えに、サラはわざとらしく溜息をついた。
「そんな冷たいこと言いはらんと。……今すぐ、労いに行ってあげはったらよろしいのに。」
「……僕はここにいないといけない。それがリョウカとの、この国との約束だ」
アキトの生真面目な反論を待っていたかのように、サラの目が妖しく細められた。
「……そりゃ、リョウカちゃんがいてはったらそう言わはるわな。あの子は規則の化身みたいなもんやし。だけどな、アキトちゃん。今はあの子はおらはらへんのや。……ええか? 今、この宮殿で、将軍様のことを止められる奴なんて、一人もおらへんのやで?」
サラの声が、冷たい風のようにアキトの耳を撫でる。 「門を開けるも閉めるも、どこへ行くも、誰を抱くも……全部あんたの自由やんか。ミオちゃんかって、あんたが行かはるならついてきはるだけやろ? 誰もあんたを叱りはらへん。誰もあんたを否定しはらへん。……ほんま、ええ身分やなぁ。」
サラの言葉は、アキトが心の奥底に押し殺していた「特権」への誘惑を、無理やり引きずり出すような毒を含んでいた。 誰も自分を止めない。何をしても、許される。
「いっぺん労いに行ってあげはり。外の空気吸うたら、頭もスッキリするで。……要件はそれだけや。ほな、また来るわな。」
サラは軽やかな笑い声を残し、夕闇の向こう側へと消えていった。 重厚な鉄の門を挟んで、アキトは一人立ち尽くす。 背後にいるミオは、主人の決断を待つ石像のように黙り込んでいる。 サラの言葉は、単なる冷やかしではなかった。一見軽そうに見える言葉に隠れ、何か真意があるように思える。
もし外に出たらどうなるだろう。サラに言われた通りリョウカに会いに行くのだろうか。もし会いに行ったら?きっとリョウカの犠牲と覚悟を踏み躙ることになる。
(罠… なのかな)
自分に言い聞かせるアキトの声は、自分でも驚くほど、ひどく頼りなく聞こえた。




