第49話
毎日届けられる報告書だけが、アキトが外界の拍動を感じられる唯一の絆だった。
ナギア人の専門家たちの指導は着実に実を結びつつある。ジャガイモの植え直し、多様な作物の導入、土壌改善。飢饉による死者数は、ピークを過ぎてようやく鈍化し始めていた。だが累計死者は35万人にも及び、依然として増え続けている。ゲームならばただの数字だが、国の責任者として、その重みは全く違うもののように思えた。人口が1000万人程度だった西ルガンにとって、飢饉は破滅的な傷跡を残しつつある。そして冬により作物はなかなか育たず、食料事情は依然として心許なく、宮殿内でも徹底的な節制が続いていた。
一方で、ここに来て不気味な拡大を見せ始めたのが感染症だ。累計の死者は1万2,000。人口比では0.12%程度だ。だが十人前後で推移していた発症者の数が20, 50, 100と急激に増えていた。栄養失調による免疫力の低下か、冬の乾燥か。それとも――。
「……隔離が、守られていないみたいやわ」
パタンと書類を入れたフォルダが閉じる音がすると、久々の訪問者となったサラの声が、重い鉄の正門越しに響いた。
アキトは正門の小さな覗き窓を開ける。互いの顔を直接見ることはない。厚い鉄扉を隔て、背中合わせになるような形で言葉を交わす。
「これでも西ルガンはよう持ち堪えてる方やわ。将軍さんの判断が早かった。元々海外との行き来が少ない国やからねぇ。最初に感染が始まったカカは勢いが落ちてきてるけど、アウリスにも中央諸国にもガンガン広まってるわ。……それと比較すれば奇跡みたいな少なさや。それでも着実に数を伸ばしてしもてる。」
サラの声はどこか乾いていた。
「お母さんが外で働く。運悪く感染者と接触して、病気を家に持ち込む。働かへんわけにもいかへんしねぇ。……逆もあるわ。感染したら死ぬ病気なんて言われたら、怖くて閉じこもっていられへん。お母さんを必死になって呼ぶの。お母さんもそんな我が子の声を聞いたら、隔離なんて言ってられへんわ。どうしても扉を開けてしまう。そして、他の子にうつるんよ」
それは、法や理屈では縛れない人間の「情」による崩壊だった。
「あとは、緩みかなぁ。最初はみんな我慢してはった。将軍さんの命令や、自分らがこの国を守るんやって。でも、ずっと家にいると頭がおかしくなってまう。隣の人の顔が見たくなるの。……見回りの憲兵らも、数は足りひんし自分らも感染は怖いわ。強く注意しようもんなら、お腹を空かせた民衆に何されるかわからへん。……ほんま、どないするのがええんやろねぇ」
アキトは窓の枠を強く握った。
「国境を閉じている以上、新たな感染源は入ってこないはずだ。国内で隔離を徹底できれば、理論上は根絶できる。……巡回に当たる人員を増やそう。怖くても、憲兵には働いてもらうしかない」
「難しいなぁ。憲兵隊にも感染者が出てしもて、隊長さんまで怖がってしもはったんやわ。副隊長さんはちょっと頼りなくてねぇ……」
「……僕が行くのはダメかな? 指揮を執れば、規律は戻るはずだ」
その言葉に、少し遠いところに立っているリョウカが鋭く反応した。
「なりません。カミシロ様の身に何かあっては……この国の最高指導者なのですよ。」
「じゃあ、他にどうしたらいいんだ。放置すれば全滅するぞ」
リョウカはしばらく沈黙し、深く、深く考え込んでから、ゆっくりとサラに問いかけた。
「……シノミヤ局長。将軍様でなくても、宮殿の者が直接指揮を執れば、憲兵団の規律は戻ると思いますか?」
「どうやろねぇ。役職が上やないと。……ミサキちゃんの言うことなら聞きそうやけど、軍の経験がのうてね。ミオちゃんは……まだ若すぎるし、集団を指揮するタイプやないしなぁ」
そこまで聞いて、リョウカはアキトに向き直った。その瞳には、すでに退路を断った者の光が宿っていた。
「私ではどうでしょうか。カミシロ様ほどでなくても、軍の経験は多少あります。何より将軍様の意向を最も理解している。代理としては私が適任です」
「リョウカちゃん、わかってる? 外は感染者がいる世界や。感染すれば、致死率は8割から9割。あんたもあの世行きやで」
サラの警告が飛ぶ。アキトは躊躇した。これは自分がやるべき仕事だ。もう、身近な人が死ぬのを見たくはない。
「……僕も反対だ。危険すぎる」
「飢饉を発生させたのは、私の責任です」
リョウカの声が、中庭に凛と響いた。
「飢饉と空腹が国民を弱らせ、病に付け入る隙を与えたのなら、この感染症も私の責任なのです。私は以前申し上げました。飢饉が終われば、必ず責任は取ると。……これが、私の責任の取り方なのです。カミシロ様、どうか許可を」
その言葉の重みに、アキトは反論の言葉を失った。彼女にとって、これは単なる任務ではない。自らの魂に課した禊なのだ。
「……しゃあないね。うちもリョウカちゃんの覚悟、本物やと思うわ。アキト、ここは行かせたげ?」 サラも、珍しく冗談めかした気配を消して、静かに同意した。
「……わかった。その代わり、無事でいてくれ。……危険は犯すな」
「…お約束いたします」
リョウカはにっこりと、少女のような無垢な笑みを浮かべ、それから深々と頭を下げた。
一時間後。
簡素な軍装に着替えたリョウカが、再び正門の前に立った。
「カミシロ様。行ってまいります」
数ヶ月間、一度も開くことのなかった鉄の門が、重苦しい音を立てて開いた。
外から流れ込む冬の風は冷たく、そしてどこか死の気配を孕んでいた。門を抜け、感染の渦中へと迷いなく歩みを進めるリョウカの背中。
傾きかけた夕日に照らされた彼女の姿は、冷徹な官僚ではなく、国を背負う一人の戦士のように光り輝いていた。
アキトは、門が閉まるまでその場を動くことができなかった。




