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第48話

ミオは自分のブーツの先を見つめたまま、あの日を語り続けた。意識が中庭の乾いた冬の空気から離れ、記憶の底に沈殿していた、あの湿り気を帯びた雨の匂いを引き寄せ始める。


 あの日も、雨が降っていた。施設を囲う高い壁に叩きつける雨音は、あたしたち子供の泣き声よりもずっと大きく、絶望的だった。泥濘ぬかるみの中に膝をつき、目の前に立つ男の軍靴を見上げていたあたしの視界は、雨と血で濁っていた。


(……将軍様の息子。この国の権力者の一人か)


 視察に訪れた男の目は、それまで見てきたどんな大人よりも冷たかった。剥き出しの殺意を込めて睨みつける。自分をこのような目に合わせている男に、体中のすべての憎しみを込めた。そんな少女を、男は一瞬で屈服させた。睨み返されただけで、心臓の鼓動が跳ね上がり、本能が「逆らうな」と悲鳴を上げた。細胞の一つ一つに恐怖を刻み込まれ、耐えきれずに目を逸らした。


 若き将軍家の男はあたしに興味を失ったように、無防備な背中を向けて歩き出した。今なら飛びついて、首を絞められる。そう思った。だが、体は金縛りにあったように動かなかった。圧倒的な格の違い。背中を見せられているのに、完全に見下されているように感じた。


「……カミシロ様。それは欠陥品です」


 施設の担当者が、雨に打たれながら媚びるような声を上げた。


「痛みを感じる。恐怖も感じる。これではいざという時にあなた様のために命は捨てられません」


「殺せるのか?」


「女ですから、相手も油断しますし。殺すだけなら……他の誰よりも。……ですが、それでは役に立つはずもありません。感情を捨てられないこいつらはゴミと同じですから」


 男が、再びこちらを向いた。今度はもう、睨むことさえできない。恐怖で顔が歪み、ただ震えることしかできなかった。


『おい、犬。……俺が拾ってやる』


 目の前で止まった軍靴が、泥を跳ねさせた。


『俺を守る必要なんてない。俺が命じたら、殺せ。それさえできれば飼ってやる』


はっとする。そのような言葉で、初めて肯定されたように聞こえた。眼窩を覗き込むようにして尋ねてきた。


『おい。名前は』


口を開こうとした瞬間、隣にいた担当者が慌てて割って入った。


『ありません。あれには名前は必要ありませんから』


アキト様は少女から目を離さずに、担当者に尋ねた。


『お前の名前は?』


『……ミオでございます。ミオ・ハナサカと申します』


『そうか。……じゃあ、こいつの名前も今から「ミオ」だ』


ミオ。それはかつて自分を痛めつけた担当者の名前だった。その名を与えられた瞬間、ミオは番号のついた肉塊から、影へと生まれ変わったのだ。


「……だからさ、アキト様」


ミオの声が、現在の中庭に引き戻される。彼女は吹っ切れたような顔で、空を仰いでいた。曇った空から光が差し始め、少女の顔を照らした。


「あたしは今、十分幸せなんだよ。もう殴られない。蹴られない。毎日うまい飯が食える。……それだけで、あたしにとっては十分すぎるほどなんだ」


アキトは、何も答えられなかった。ミオの言う「幸せ」があまりに惨めで、胸の奥をかき乱される。暴力に晒されず、ご飯が食べられる。その「当たり前」を、入れ替わる前のアキトが彼女に与えたのだ。


 アキトは膝の上の本を強く握りしめた。ミオが語る「アキト」は、あまりに冷酷で、圧倒的なカリスマを持つ怪物だ。今の自分とは似ても似つかない。その男がなぜミオを選び、護衛筆頭に任命したのか。その意図もわからない。


すべてを聞き届けたアキトの脳裏に浮かんだのは、一言だった。


(ごめん)


喉まで出かかった言葉を、冷え切った唾液と一緒に飲み込む。 地獄のような日々を生き抜く術として殺しを覚えたミオを怖いと思ってしまったこと。ミオにとっての恩人になり変わってしまったこと。ミオの過去を何も知らなかったこと。今まで知ろうとしなかったこと。 そして、望んでこの国を運営しているわけでも、そのような惨状を知っていたわけでもない。それでも、この国に住む一人の大人として。複雑な思いを、その一言にすべて込めた。

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