第47話
石炭酸の匂いは、脳の奥に直接こびりつくような不快感がある。自室でのミサキとの時間は確かに穏やかだったが、常に「偽物である自分」を意識し、完璧な彼女に合わせて背筋を伸ばし続けるのは、今の自分には相応のエネルギーを要した。
「……外に、出たい」
アキトがポツリと漏らした一言に、固く閉じた扉の向こう側にいたリョウカの手が止まった気配がした。
「なりません。危険です」
返答は、案の定、氷のように冷たかった。
「わかっている。だが、宮殿の敷地内……中庭だけだ。宮殿には人の出入りはないし、あそこなら通気もいい。感染のリスクは室内よりも低はずだろ」
アキトは食い下がった。しばらく無言の時間が続いたかと思うと、やがて溜息と共に返答があった。
「……確かにそうですね。失礼しました。仕事も終わっておりますので、どうかゆっくりなさってください」
そうして勝ち取った「外」は、驚くほど静かだった。 冬の風は冷たいが、久しぶりに浴びる直射日光は、刺すような鋭さの中に確かな温もりを孕んでいた。中庭のベンチに腰を下ろし、アキトは大きく息を吸い込む。肺が洗われるような感覚。日差しの温かさに当てられ、固まっていた思考が少しずつ解けていく。平和な、あまりに平和な時間。ふと視線を横に向けると、数歩離れた位置に、いつものように無表情で直立するミオの姿があった。
「……暖かくていいな」
「そうだ……ですね」
「いいから。……もっと楽にしててくれ。気を遣わなくていいよ」
アキトが苦笑交じりに言うと、ミオは眉をひそめてアキトを見た。数秒の葛藤があったようだが、やがて彼女は笑うと、ベンチの端に乱暴に腰を下ろし思い切り屈伸をした。北風は凍てつくようだ。だが、太陽の陽気のせいか、宮殿の中よりも暖かい気がする。
「……最近どう?」
間を埋めるための何気ない質問だった。
「……どうって、何がだよ」
先ほどまでの任務を熱心にこなしていた少女の姿はない。あまりに自然な、乱暴でぶっきらぼうな口調への変わり身の早さに思わず苦笑が溢れる。だが、それが彼女にとっての「素」の言葉なのだと思うと、アキトはどこか親近感を覚えた。
「最近は病気も流行ってるし、自由に出歩けないからさ」
質問の合点が行き、ミオが答えた。
「あたしはアキト様の護衛だからな。アキト様が外に行くなら一緒に行く。行かないなら宮殿の中にいる。部屋の中にいれば、扉の外でじっとしている。そういう仕事だからな。何も変わらねえな」
「ああ……でもこの仕事に就く前は? よく出かけたり、遊びにいったりしてたんじゃないのか?」
アキトとしては、本当に軽い気持ちだった。だが、ミオの口から溢れ出したのは、日差しの温もりを瞬時に凍りつかせるような「闇」だった。
「……あんだよ。アキト様も知ってるはずだろ。前は、軍が管理する施設の中にいた。入ってからは、一回も外に行かせてもらったことはねえよ」
さっきまで出ていた太陽に雲がかかった。途端に気温が一気に下がる。話題を変える前に、ミオから次の言葉が放たれた。
「……家が貧しくてな。家族と過ごした記憶は碌にねえ。親父の顔なんか知らねえ。きっと軍隊に入ったのかな。だから、施設には母親に連れられたんだ」
自分のブーツの先を見つめたまま淡々と語る。
「そこには、あたしみたいな貧しい家の子が20人くらいいた。……毎日、大人に寄ってたかって殴られて、蹴られて、痛みと感情をすべて捨てるように『指導』された。周りの子供たちも『仲間』じゃねえ。互いに毎日戦わされた。負ければ殴られ、飯も抜きだ。だから必死で戦ったよ」
アキトはその壮絶な日々を想像する。受験や、就職活動。そして、新入社員として始まった慣れないサラリーマンとしての日々。それがアキトの知っている今までの地獄だった。理不尽だ、暴力的だと思った。だが、自分より一回りも年の低い少女にとっての日常は、自らに対するはるかに体の大きい大人たちの暴力に晒される、文字通りの地獄だったのだ。
「周りの奴らは、あたしより先に施設を出ていったよ。ある奴は殺し屋に、それ以外はほとんど軍に入った。感情も恐怖も感じず、任務のために平然と人を殺せる……。それが施設の『正解』だ。あたしは……いつまでも認められねえ、落ちこぼれだったんだよ。痛ぇのはいつまでたっても痛ぇ。怖ぇのもいつまでたっても怖ぇんだ。何度殴られても。毎日蹴られてもな」
ミオはアキトの方を向き、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「……そんな時に、出会ったんだ。アキト様とな」
その瞬間、アキトの心臓が嫌な音を立てた。ミオの瞳には、かつて自分を地獄から引き上げてくれた「アキト」への、絶対的な信頼と感謝の色が宿っている。彼女にとって、その出会いは人生のすべてを変えた聖域のような記憶なのだろう。だが、今ここにいるアキトは、その記憶を共有していない。彼女がどんな顔をして助けを求めたのか、あのアキトがどんな言葉をかけて彼女を拾ったのか。その感触が、一切、欠落していた。




