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第46話

雨が窓を叩く音だけが、自室に響いている。  アキトは机に置かれた茶碗を見つめ、静かに立ち上る湯気を眺めていた。数日前、ミサキがしてくれた「ふうふう」。あの時の気まずさと、妙な温もりが、どうしても頭の片隅から離れない。正直に言えば、期待していた。自分から頼む勇気はないが、彼女がまた、あの少し間の抜けた、けれど献身的な仕草をしてくれるのではないかと。


だが、ミサキは音もなく茶を置くと、そのままスッと自分の席に戻ってしまった。アキトは、行き場を失った期待を飲み込むように、自分で茶を啜る。熱い。舌を焼きそうな熱さが、自分の浅ましさを笑っているようだった。


 沈黙が痛い。アキトは膝の上に置いた『西ルガンと偉大なる将軍家』という、中身が一切頭に入ってこない本を指でなぞった。初代将軍の武勇伝など、今の自分にはあまりに遠い。  意を決して、アキトは刺繍に没頭するミサキに声をかけた。


「……その、刺繍。何を作っているんだ?」  


ミサキの針が止まり、顔が上がる。


「ウサギ、です」


「ウサギ……。何か、宗教的な意味とか、紋章の由来があるのか?」


 将軍家の妃が縫うものだ。何かしら高尚な理由があるのだろうとアキトは推測したが、ミサキは少しだけ小首を傾げて答えた。


「いいえ。ただ……可愛いですから」


 アキトは不意を突かれ、顔が熱くなるのを感じた。完璧な淑女だと思っていた彼女の口から出た、あまりに「普通の女の子」らしい理由。


「……そうか。ウサギ、か」


「はい。こう……ぴょん、とするのが」


 ミサキは両手を少し上げ、指先を丸めて、ウサギの耳が跳ねるような仕草をしてみせた。  その瞬間、アキトの脳内が真っ白になった。  無機質で完璧な美しさを纏っていた彼女が見せた、あまりに幼く、無防備なジェスチャー。胸の奥が、物理的に締め付けられるような衝撃。 (……だめだ、これ以上見たら、心臓が持たない……)


 アキトは咳払いをして、動揺を隠すように椅子から立ち上がった。


「……ミサキは。何でもできるんだな」


 彼女の側まで歩み寄り、手元の布を覗き込む。


「そうでしょうか。……まだまだ、全然です」


ミサキは、自分が縫い上げた白い毛並みのウサギを見つめ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「僕には、完璧にしか見えないけれど」


「構図が崩れていますし、形も悪いです。もし母がここにいたら、きっと厳しく叱られていたでしょう」


「お母さん……。どんな人だったんだ?」


 ミサキは、遠い記憶をたどるように針を休めた。


「厳しい人でした。刺繍以外にも、踊りや料理……色々教わりましたが、褒められた記憶が一度もありません。何をしても『妃として当然です』と。……それ以外は、許されませんでした」


 彼女の育ってきた、息の詰まるような「完璧」への強要。  アキトは、自分の「偽物」としての重圧と、彼女の「完成品」としての重圧が、どこか似ているような気がして胸が痛んだ。


「……料理もするんだな。この宮殿では、いつも料理人がやっているから、想像がつかなかった」


「厨房の方に、少しだけお借りして。……一昨日の晩御飯に、ジャガイモを蒸したものをお出ししたのですが……。あれ、私が作ったのです」


「えっ、あれミサキが?」


アキトの脳裏に、あの素朴な、けれど妙に温かかった味の記憶が蘇る。


「……あの。どうでしたか?」  


ミサキは、叱られるのを待つ子供のような、不安げな瞳でアキトを見上げた。


「美味しかった。……ああ、本当に美味しかったよ」


 アキトがそう告げると、ミサキの顔がぱっと輝いた。それは、教養として身につけた「微笑み」ではない。心の底から溢れ出た、一人の女性としての、純粋な喜び。


「……良かった。本当に、良かったです」


 二人の間に、初めて「将軍」と「妃」という肩書きを介さない、柔らかい空気が流れた。窓の外では相変わらず石炭酸の雨が降っているが、この小さな空間だけは、どこか無菌室のような平穏に満たされていた。


「……その、すみません。私のつまらない話で、貴重な時間を。……私、普段あまり人と話すことがないものですから」


 ミサキは我に返ったように、慌てて視線を刺繍に戻した。


「いいんだ。……その、僕の方こそ、君とちゃんと話せていなかったから。……ごめん」


 アキトがそう言うと、ミサキはにっこりと、今度は確かな温もりを持って微笑んだ。そして、再び

静かに刺繍に取り組み始める。


 アキトは再び、ベッドの上の『偉大なる将軍家』の歴史書を手に取った。  


外の世界では疫病と飢饉が広がる。今この瞬間にも国は存続のためと正当化をし、憎悪の種を撒き散らしている。そしてリョウカ、ミオ、サラ。彼女らは人の命を奪うことになんら躊躇がない。死が日常に溶け込む西ルガンの血生臭い現実は、すべて悪い夢だったのではないか。  


 アキトは、このゆっくりと流れる「偽物の日常」を、もう少しだけ、幻だと知りながら楽しもうとしていた。


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